何卒私の言うことを聞いてください、ようよう」
と諭されて、おかめは「はい、はい」とばかりで泣いておりましたが、角右衛門の言葉も捨ても兼ねて、是非なく両人で沼田へ帰って参りました。
さて、話は二つに分かれます。塩原角右衛門は、その前年の九月三日に小川村を出立いたしまして、沼田の御城下に泊まり、翌日は前橋に泊まり、その翌日が熊谷泊りで、それから鴻巣、桶川と中山道を下りました。しかし、足の弱い連れで道もはかどらず、天神橋へかかると日はすっかり暮れ、足は疲れ果てて御新造は歩けませんから、蔦屋という茶屋へ寄りました。塩原「本当に困ったものだな。足は痛むかな?」
お清「はい、いくら薬を塗っても治りませんので困ります」
塩原「本当に草鞋(わらじ)で歩くのは疲れるものだな。そのくせ山道は歩き慣れていたはずなのに、平地の方がかえって疲れるというのはどういうことだろう。おい、そこの女中さん、ここから大宮宿まではどれくらいあるかな?」
女「ここから一里四町(約4.5キロ)ありんすが、もう日が暮れてしまってはお困りでしょう」
塩原「この家で泊めてくれないかな?」
女「うちの家は堅い商売をしておりますので、どんなに馴染みのお客さまでも泊めることはいたしません。三味線や芸事もやりませんよ。私たちは堅い家でないと勤まりませんから。その代わり、この家は忙しくて、庭の中を一日中歩けば十里(約40キロ)くらいの距離にはなりますから、夜になると疲れて倒れるように眠ってしまうんです。それに比べると熊谷の女連中は柔らかな着物を着ていて楽な代わりに、この家に来たら三日も勤まらないでしょうね。ああ、本当に何もご馳走できるものもありませんよ。玉子焼きに泥鰌(どじょう)汁に生節(なまぶし)の豆腐くらいで……」
塩原「よしよし、何でもいいから早くしてくれ」
そう言って、この家で食事の支度をさせました。
塩原「おい、女中さん、勘定をしておくれ。さあお清、この包みはお前が持って行ってくれ。これは端金(はしたがね)で出しておくから、こっちの包みは私が持って行く」
そう言いながら荷物を分けていますと、側にいた二十二、三歳くらいで半合羽(はんがっぱ)を着た商人風の男が、草鞋の汚れたものを履いて頬かむりをしながら、この男も出発しようとしていたところ、突然、側にあった角右衛門の風呂敷包みをひったくって逃げ出しました。角右衛門は驚いて、「盗人、待て!」と叫びながら追いかけました。
あっちへこっちへと一町(約110メートル)あまりも追いかけ、加茂宮村という所から西へ別れて加村まで三町(約330メートル)ほど追いかけましたが、塩原はもう追いつけそうにありません。そこで脇差にあった小柄(こづか)をサッと抜いて手裏剣のように投げつけました。投げたのは名高い塩原角右衛門の腕前ですから、狙い違わず悪者の右の太ももに突き刺さりました。悪者は「あッ!」と言って畑へ倒れ込みました。そこへ角右衛門は悪者の髷(まげ)をつかんで引き倒し、こう言いました。
塩原「おい盗人、旅の途中ゆえ助けてやらないこともないが、包みを返せ」
悪者「はい、はい……貧しさゆえの盗みでございます。どうか命ばかりは助けてください」
塩原「黙れ! 貧しさゆえの盗みだなどと言って、そんなことに騙される私ではない。今度は免してやるが、今後は心を入れ替えるか?」
そう言いながら、側にあった榎(えのき)の根株へ頬をこすりつけましたから、悪者は痛くてたまりません。
悪者「どうか御勘弁を願います。実は盗賊ではございません。実は私の母親が目の病気で苦しんでおりまして、その上、七歳になる妹がいて生活に困っております。母親に良い薬を飲ませることができず、何とかして治してやりたいと思いまして……。今日、鴻巣まで薬を買いに行き、天神橋の蔦屋で休んでおりましたら、旦那様が荷物を分けて、『これだけは端金で出しておく』と仰ったのを側で聞いておりました。つい悪い考えを起こして包みを奪って逃げましたが、中に大事な書類でも入っていてはお気の毒だと思い、今晩泊まられる宿へ行って返そうと思っておりました。本当に悪いことをして申し訳ありません。どうかお許しください。足が痛くて歩けませんので、どうか小柄を抜いてください」
そう泣きながら申しますと、
塩原「なるほど、賊という者はもっともらしいことを言うものだな。先刻、荷物をひったくって逃げた様子が、貧しさゆえの盗みとは思えんぞ」
悪者「いいえ、真実の盗賊ではございません。そこが私の家でございますから、嘘だと思うなら行って見てください」
そう言いながら、ダラダラと血の流れる足をひきずって、上総戸(かずさど)の元へ這い寄りました。
悪者「お母さん、あなたの目の病気を治そうと思って、とんでもないことをしてしまいました。このお侍様にお詫びをしてくださいよ」
そう言って戸を開けると、四十三、四歳くらいの母親が目の病気の様子で、その側に七歳くらいになる女の子が座っていました。悪者はその側へ這い寄り、
悪者「お母さん、お母さん。お前の病気を治そうと思って、悪いことと知りながら悪い心を出して、ここにいる旦那の荷物を奪おうとして捕まり、今お詫びをしているところなんだ。お母さん、お前もお詫びをしておくれ。お母さん、お母さん……ああ、ああ」
母親「何か、息子が不調法をいたしまして申し訳ありません。何卒お許しくださいまし」
塩原「これはお前の家か?」
そう言っているところへ、おせいも駆けつけてきました。
塩原「よくお前も来たねえ」
お清「はい、様子が分かりませんで心配になりまして参りましたが、あの包みはございましたか?」
塩原「なに、包みは奪われはせんよ」
母親「どちら様でございますか。目がよく見えませんが、どうか御勘弁を願います。不届き至極な奴でございます。さあ、ここへ来い! 来い!」
そう言って息子の髷をつかんで引き寄せ、三つ四つと続けて殴りつけました。悪者「お母さん、勘弁してくれ、勘弁してくれ!」
母親「勘弁してくれと言ったって、お前だって元は武士の子ではないか。どんなに貧しくなったからといって、人様の物を奪うなんて、亡くなったお父さんに顔向けできないじゃないか。一体どういう了見でそんなことをしたんだい!」
と泣きながら息子にすがって打ち叩きます。その様子を見ていた塩原角右衛門も気の毒に思い、こう言いました。
「お母さん、許してやってくれ。貧しさゆえの盗みだと言うのだから。だが、たとえ親のためであっても人の物を取るのはいけないことだ。今後はこのようなことがあってはならんよ。これは少しばかりだが、子供が怖がって泣いているではないか。さあ、これはわずかだが小遣いとしてやるから、何か好きな物でもお母さんに買ってあげなさい。それにしても、そうとは知らずに気の毒なことをした。足に手裏剣を投げてしまったから、さぞ痛むだろう。随分と痛むかな? それは貴様が心得違いをしたのだから仕方ない。よしよし、これで別れることにしよう」
母親「とんでもございません。息子が悪いことをしたのに、お金をいただくなんてことはできません」
塩原「少しばかりだが、取っておきなさい」
悪者「はい、はい。
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