初級翻訳・塩原多助旅日記 第2話

三遊亭 円朝

悪人とはいえ、さすがに気味の悪いもので身の毛もよだつ思いがしましたが、「土左衛門を突き出しておしまい!」と命じました。
そこで仕事師が手鍵を持ってきたり、転子(てんこ)が長棹を持ってきたりして川へ突き出すのですが、何度やってもまた桟橋に戻ってくるのです。いくら突っ放しても戻ってくるので、「これではいけない」と三人掛かりでようやく突き出したところ、その桟橋で車力が二人即死してしまい、仕事師が一人気が狂ってしまうという大騒ぎになりました。

それからというもの、その死体が祟るのではないかと気病みして――今でいう神経衰弱のようなものでしょうか――二代目は精神を病んで、ついには気が狂ってしまいました。
その後、三代目が嫁を迎えましたが、名前は忘れましたが、確か旗本のお嬢様だったとか。
旗本のお嬢様が嫁に来るような身代になったのですから、相当な大金持ちになっていたわけです。
すると、この嫁を姉と番頭とでいじめたので、嫁は辛くて耐えられず実家へ帰ろうとしました。しかし父親は昔気質の武士だったので、「一度嫁いだ先から戻ってくるような者は手打ちにする。仮にどんな事情があろうとも、女は嫁いだ家を本当の家と思わねばならぬ」と言い聞かされて追い返されました。途方に暮れた嫁が塩原の家の内井戸に飛び込んで幽霊として出るようになったのが、あの大きな家が没落する始まりだったのです。あの立派な家が潰れてしまったのもそのせいだ――という話を聞いて、「なるほど、これは面白い怪談だ。これを種にして面白い話をこしらえてみたい」と思いました。しかし、その塩原多助という者が本所相生町に実在したのかどうか、名前さえ初めて聞いたくらいなので分かりません。
とにかく本所へ行って調べてみようと思い、是真翁の家を辞して、そのまま本所へと向かいました。

さて、是真翁の家を後にして、すぐに本所へ行き、少し顔なじみの人がいたので順々に聞いてみると、「二つ目の橋の側に金物屋があるから、そこへ行って聞けば分かるだろう」とのことでした。
さっそくその金物屋で、名前は伏せますが、「是々の炭屋はありましたか?」と聞くと、「なるほど、塩原多助という炭屋があったそうです。それは相当古い話ですがね」と言います。
「それでは、塩原のことを詳しく知っている人はいませんか?」と尋ねましたが、誰も知らないといいます。
どこを探しても分かりません。その時、六十九歳になる、仕事師の頭とまではいかないまでも、世話番くらいの男に聞くと、「私は塩原の家へ出入りしていましたが、細かいことは知りません」と言いました。
「それでは、塩原の菩提寺はどこでしょうか?」と聞くと、「浅草の森下の……確か東陽寺という禅宗の寺だったはずです」と教えてくれました。

それからすぐに本所を出て吾妻橋を渡り、森下へ行って探すと、今の八軒寺町に曹洞宗の東陽寺という寺がありました。
門の所で車から降りて中に入ると、玄関の襖紙に「円に十の字」の紋が付いています。
「はてな、これは薩摩様のお寺ではないか」と思いました。
門番の所で花を買って十銭散財し、「お墓を掃除してください。塩原多助の墓はこちらでございましょうか。私は塩原の縁戚の者ですが、初めて参りましたので場所が分からず、案内してください」と言うと、「へい、畏まりました」と言って墓へ案内し、掃除をしてくれました。
私は墓の前に向かって、縁戚でも何でもないのですが、先祖代々の供養をしながら墓を眺めると、墓石を取り巻いて戒名が彫ってあります。
第一に「塩原多助」と深く彫り込まれていました。
石塔の裏には新しい塔婆が立っていて、そこには「梅廼屋」と書かれてありました。どういうわけか「梅廼屋(うめのや)」という名の塔婆(とうば)が立っているのか不思議に思い、矢立(やたて)と懐から出した紙入の鼻紙を取り出して、墓石に刻まれた戒名や俗名をすべて書き写しました。しかし、年号や月日がはっきりとは分かりません。そこで寺の玄関へ回って「お頼み申します」と声をかけると、小坊主が出てきて取り次いでくれました。

私は「本所相生町二丁目の塩原多助の縁戚の者ですが、まだ塩原の墓の場所を知らず、ただ塩原のお寺がこちらだと聞き伝えて、今日はお墓参りに参りました。これは心ばかりのものですから、どうか先代多助の供養をお願いしたいのです」と言って、金を一円包んで差し出しました。すると奥から和尚様が出てこられて、「あなたが塩原多助の縁戚の方でございますか。私がこの寺の住職でございます……ただ今供養を……」「いいえ、今日は急ぎの用事がありますから、供養は後ほどお願いいたします。塔婆を立てて、どうぞ供養を願います」「承知いたしました」と言って、お茶を入れて金平糖か何かを出してくれました。

その時、和尚さんの手元に長谷川町の待合(まちあい)、「梅廼屋」の団扇(うちわ)が二本あるのが目に入りました。はて、この寺に梅廼屋の団扇があるのはどういうわけだろう。特に塩原の墓にも梅廼屋の塔婆が立っていたことから、何かわけがあるに違いないと思い、「和尚さん、ここにある団扇は、長谷川町の待合の梅廼屋の団扇ですか?」「左様です」「梅廼屋は、こちらの檀家(だんか)でございますか?」「いいえ、檀家というわけではありませんが、長い間、塩原の届け物をしているのは梅廼屋をおいて他にありません。それでこの団扇があるのです」「それはどういうわけですか?」と聞くと、梅廼屋は五代目の塩原多助の女房で、亭主が亡くなってから長谷川町へ「梅廼屋」という待合を出したのだといいます。

「へえー、そうでしたか!」それならば、梅廼屋のおかみに聞けば塩原のことは詳しく分かるはずです。梅廼屋に聞くのは造作もありません。なぜなら、梅廼屋は落語界の寄合茶屋(よりあいぢゃや)だからです。
「ありがとうございます。どうか供養を願います。また参詣いたします」と告げて、それからすぐに浜町一丁目の「花屋敷」という料理屋へ行って食事を注文し、家の車をやって「この車で今すぐ来てくれ」と、梅廼屋のおかみを迎えにやりました。

梅廼屋は先ほども申しました通り、落語家一同の寄合茶屋で、特に当時私は落語家の頭取をしておりましたから、私を無下にはできないだろうと思っていたら、すぐにその車で駆けつけてくれました。
「どうしたんですか? 何か急な御用ですか?」「いや、改めて聞きたいことがあるのだが、お前は塩原という炭問屋へ嫁に行ったことがあるそうだな」「いいえ、炭問屋はとうの昔に潰れてしまって、お厩橋(おうまやばし)へ来た時に私が縁付いたのですよ」「お前の亭主は?」「秀三郎といって五代目でございます」「早く死んだのかい?」「ええ、少し気が違ってしまって、早くに亡くなりました」と言うので、なるほど是真翁の話の通り、祟りがあったのだなと合点がいきました。

「お前さんのところに何か書物は残っていないか? 先祖である塩原多助の書類か何かないか?」「何もありません。少しは残っていた物もありましたが、この前の火事で燃えてしまいましたから、書付類はありません。ただ、御先祖様が着た黒羽二重(くろはぶたえ)で、大きな轡(くつわ)の紋が付いた着物が一枚あります。

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