「さあ、葉ちゃんの出番だよ!」
「あら、もう私の番? 忙しいわね!」
「急いで、急いで!」
葉子はあわてて、持っていたお煎餅を一口かじると、衣装部屋から元気に飛び出していきました。
ちょうどそこを通りかかった黒吉は、それをちらりと見ると、何を思ったのか、その食べかけのお煎餅を、そっと、まるで宝物でも扱うように大事そうに拾い上げました。
二ノ二
葉子が食べかけて置いていったお煎餅をそっと拾い上げた黒吉は、団員たちが白粉をたっぷり塗った顔を赤くしながら忙しそうに話しているところを、知らん顔で通り抜けました。そして、小屋の隅っこにある、座布団が山のように積み上げられた日陰の場所へとやってきました。
黒吉はこれまでの経験から、本番が始まるとこんな場所にはめったに人が来ないことを知っていたのです。
それでも注意深く、周りに誰もいないことを確かめると、こそこそと体をかがめながら、今にも崩れそうな座布団の隙間へと潜り込んでいきました。
その隙間はとても狭くて窮屈でしたが、妙にぬくぬくとした柔らかさがあり、なんだか懐かしい場所に守られているような気持ちになりました。
黒吉はやっとホッとした落ち着きを感じながら、あのお煎餅のかけらを取り出し、まるで大切な宝石であるかのように、そーっと手のひらの上に載せて見つめました。
(これが、葉ちゃんのかじったお煎餅なんだな)
そう思うと、思わず頬がゆるんでしまうほどの嬉しさがこみ上げてきました。
……大事に大事にとっておきたいような、……ぎゅっと抱きしめたいような――。
黒吉は、胸いっぱいの幸せを味わいながら、薄暗い光の中でもう一度、しみじみとお煎餅を見つめました。
そうしてよくよく見てみると、気のせいか、そのお煎餅のかけらは少し湿っているように見えました。
そっと触ってみると、確かにかじった跡のところが少し湿っています。
(葉ちゃんのつばかな……)
黒吉の小さな心臓は、この思いがけない宝物に、ドキドキと激しく震えました。
彼は、いくら子供だとはいえ、もちろんこんなお煎餅のかけらを「食べたいから」拾ってきたわけではありません。
黒吉にとって、「葉ちゃんの食べかけ」というだけで、このお煎餅はキラキラ輝く大きなダイヤモンドと同じ価値があるように見えたのです。
でも、触ってみると、このかけらは湿っている……。
(葉ちゃんのつばなんだ……)
その瞬間、黒吉の頭の中には、衣装部屋で葉子が忙しそうにお煎餅をくわえていた姿と、それに続いて大きく映し出されるような、彼女のかわいらしい赤い唇が、はっきりと浮かび上がりました。
それと同時に、彼は思わずゴクリと、喉を鳴らしてつばを飲み込んだのでした。黒吉は、怪しく目を光らせながら、周りをこっそりと見回しました。そして、ついに決心したように、葉ちゃんのつばで湿っているに違いない、そのお煎餅のかけらをそっと唇に近づけました。
(しょっぱいな……)
それはもちろん、普通の塩せんべいの味でした。
けれど、黒吉の手はなぜかブルブルと震えていました。
子供らしからぬ、どこか暗い影のある彼の顔は、いつの間にか熱っぽく真っ赤になり、ドクドクと激しく脈打つ心臓のせいで、こめかみがピクピクと波打っていました。
そして、手のひらの中でベトベトに溶けてしまったお煎餅のかけらから、どうしても「葉ちゃんの匂い」を感じ取ろうと、周りのことも自分のこともすべて忘れて、ペロペロとなめ続けていたのです。
「こらっ! 何をしているんだ、黒公(くろこう)!」
ハッと我に返ると、積み上げられた座布団の向こうから、源二郎(げんじろう)おじいさんが、怒りと不思議そうな顔を混ぜ合わせた表情で、こちらをのぞき込んでいました。
「お前の出番じゃないか。ぐずぐずしていると、またひどく怒られるぞ」
「うん!」
黒吉は、一瞬で怖い親方の顔を思い出して、ピョコンと飛び起きました。
そして、ベタベタと粘る手のひらを体にぴったりした衣装でゴシゴシとこすりながら、あわてて楽屋の方へと走っていきました。
二ノ三
黒吉は、言いつけられた色々な曲芸をしながらも、頭の中はいつも葉ちゃんのことでいっぱいでした。
(一度でいいから、葉ちゃんとじっくりおしゃべりしてみたいな)
これが、彼のひねくれてしまった心の中に生まれた、たった一つの願いでした。
もし彼が、もっと明るくて、普通の男の子だったなら、いつも同じサーカス小屋にいる葉ちゃんなのですから、そんなことは簡単にできたはずです。
けれど、そうなるには、黒吉はあまりにも暗くて、ひねくれた男の子でした。
――というのも、彼を取り巻く暗い環境が、彼をそんな性格にしてしまったのですが――。
そして、年齢のわりには大人びた葉ちゃんへの強い気持ちが、どうしても抑えきれなくなったとき、彼が見つけたのは、あの「お煎餅のかけら」から始まった、不思議でたまらない、うっとりとするような世界でした。
一度、こんなふうに心の逃げ道を見つけてしまった彼の気持ちが、そのまま止まるはずはありません。それどころか、まるで大津波のように、その逃げ道に向かって一気に押し寄せていきました。
彼は、誰もいないことを見計らって、そっと衣装部屋に忍び込み、葉ちゃんの小さな衣装に、自分の顔をうずめてみることもありました。
そこから漂う白粉(おしろい)の匂いや、女の子らしい香りが、頭がクラクラするほどの、夢のような心地よさを与えてくれるのです。
そして、あるとき、その衣装に、葉ちゃんのおかっぱ頭の髪の毛が、二、三本ついているのを見つけました。黒吉は、この大発見に心の中で飛び上がるほど喜びながら、そっとていねいにつまみ上げました。そして、白い紙に包むと、そこにあった鉛筆で、
「葉子ちゃんの髪の毛」
と、下手くそな文字で一生懸命に書き込み、もう一度上から指でそっと確かめてから、洋服の奥深くに大事にしまい込んでしまいました。
こうした彼の不思議な行動は、ますますエスカレートしていきました。それは、その後、葉ちゃんの持ち物がたびたびなくなるようになったことからも、よく分かりました。
なくなるといっても、もちろん、サーカス団の女の子が持っているものなので、大したものではありません。すっかりすり減って、真っ黒な足の跡がついた、古い下駄の片方だとか、毛が抜けてしまった竹の歯ブラシだとか、本当に、他人から見ればどうでもいいようなものばかりでした。
だから、
(誰かに盗まれた!)
と、葉ちゃん自身もまったく気づかなかったことは、黒吉にとってラッキーなことでした。
けれど、これらの「どうでもいい落とし物」が、黒吉にとってどれほど大切な宝物だったかは、言うまでもありません。
――ここまでは、黒吉少年の心の中で膨んでいった、ちょっぴり寂しい(けれど、どうしてもあきらめきれない)、彼一人だけの秘密の恋でした。
しかし、ここで、まるで嵐の音楽をバックにするように、葉ちゃんがかっこよく、現実の舞台へと登場することになります。
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「極東サーカス団」は、町から町、にぎやかな場所から場所へと、お客さんたちを楽しませながら、旅を続けていました。
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