初級翻訳・大根の葉 第10話

壺井 栄

「はい、それがですね――」
お母さんは言いにくそうに、ちょっと言葉を切りました。
みんなはお母さんの顔をじっと見つめました。
「――だいぶ見えるようにはなったんですけど、片方の目がまた失敗してしまって……。もう一回手術をしないといけないんですが、でも一度こうして戻ってきたのは、もうすぐお正月(節季)も来るし、持って行った私の仕事もすっかり編み終わっちゃったし、それに費用の相談もしなくちゃいけないのでね――」
みんなはがっかりした顔になり、言葉もなく大きなため息をつきました。
お母さんは、そんな暗い雰囲気を吹き飛ばすように、ぱっと顔を上げました。
「でも、克子の目はまだましなほうなんです。緑内障(りょくないしょう)といってね、中には黒目がない人や、黒目があっても瞳(ひとみ)がない子もいるそうなんです。そういう人たちはもうお医者さんでもどうしようもないけれど、それに比べたら目が治る見込みがあるだけでも喜ばなくちゃいけないと思って。世の中には目の病気で苦しんでいる人もたくさんいますからね。」
「克子の目はどういう病気なんだい?」
おじさんが箸箱をしまいながらききました。
「克子の目は白内障(はくないしょう)といってね、目の中にあるレンズ(水晶体)のにごりを取りのけたら見えるようになるんですけれど、なかなかその手術がうまくいかなくって……。」
「ふむ、それで、もう一回手術をしたら必ず見えるようになるのかい? もし治らなかったら、やっぱりお金をドブに捨てるようなものかい?」
おばあさんが不安そうにききました。
「そりゃあ、手術してみる前にはっきりとは言い切れませんけれども――」
お母さんはみんなの顔をかわるがわる見渡しました。
「どのていど見えるようになるんだい?」
おじさんが言葉少なくききました。
お母さんはおじさんの顔を見て、しばらく考え込みました。
「――まあ、あの子はまだ小さいから、お医者さんの質問にうまく答えられるわけでもないし、十分にはわからないんですけれど、だいたい二メートルくらい先のものが見えるようになるみたいです。障害物をよけて歩いたり、おもちゃをつかみに来たりできるようになってね。先生もすごくやる気を出してくれて、看護婦さんまで喜んでくれて……。――それで、もう片方の目も同じくらい良くなれば、もっともっとよく見えるはずなんですが、まだ目の白っぽいのが取れなくて。どうしてももう一回手術をしなくちゃいけないんですけれど――」
どう言って説明すればみんなにわかってもらえるかと、お母さんは考えながら話していましたが、誰もがいまいちピンとこない顔をしていました。
おじさんは首をかしげ、ポンと煙管(きせる)を灰皿にたたきました。
「難しい病気だなあ、どうもわしらには納得がいかん。まさかお医者さんが嘘つきだとは思えんし、お前もバカじゃないんだから嘘を言っているはずもないし……。しかしなんだなあ、目のなかのレンズを取りのけたりして、本当にものが見えるようになるものかねえ? 不思議だなあ。」
おじさんは腕を組んで深く考え込みました。
おばあさんは待ちかねていたように膝をすりよせ、こう言いました。
「お前、どうなるかわからないものにそんなにお金をつぎ込んで、それじゃあ死に金(使っても何の役にも立たないお金)じゃないか。そんなことより、神様仏様に祈願でもしてみおくれよ。お祈りで目が治った例だってあるんだし、そりゃ克子もかわいそうだけれど、自分で持って生まれた不運なんだよ。今言うみたいに少しでも見えるなら、昔みたいにあんま(マッサージ師)の仕事をしてでも、まったく目が見えないよりはずっといいじゃないか。今回はもうあきらめなさいよ。」「……まあほら、どこか他所の人の話だけどね、お大師さまにしっかりお参りして、お寺の霊水をもらってきて目を洗ったら、お大師さまのお姿が目の前に現れて……」
「おばあさん!」
おじさんがパッと顔を上げて、おばあさんの話をピシャリと遮りました。
「そうさね、今どき信心だ信仰だなんて言ったって、そんな甘いことじゃどうにもならないさ。だけど、お医者さんに見てもらったって治らない病気だってあるんだから、よーく考えてバカを見ないようにしなくちゃいけないよ」
お母さんは、その言葉を聞くやいなや、ハラハラと大きな涙をポロポロと流し出しました。
そして、みんなの前にペタリと両手をつきました。
「どうぞ、克(かつこ)のことだけは、私にどうか任せてくださいまし! 私はもう、たとえ目が本当によく見えるようにならなくたって、やれるだけのことをしてやらなきゃ、一生後悔してあきらめがつかないんです……! わたしは死にものぐるいで働きますから。どうか、もう一度だけ手術をさせてやってくださいまし!」
みんなはだまり込んでしまいました。
お母さんは着物の袖口で自分の目をギュッと押さえました。
キセルを手に取り、タバコを詰めたものの、火もつけずにずっと考え込んでいたおじさんが、ようやく顔を上げました。
「わしもな、どうせ弟には、たとえわずかな財産でもちゃんと分けてやらなきゃいかんと思っとる。だけど、あの弟だけは、どんなに苦しくても学校へ行きたいと言い張ってね、こうして兄弟の中で一人だけ大学までやったんだ。だから他の兄弟よりもずっとお金がかかっている。うちの家計の身分から言ったら、大学どころか中学校だってお金がなくて行けないような暮らしだったのに、無理して行かせたんだ……。
そこへ持ってきて、昔お世話になった醤油の会社がつぶれたりして、うちの家計も今はかなり苦しい。……だけどな、十あるものが一つになったって、兄弟で半分ずつ山分けするのが兄としての責任だと思っている。ゆくゆくは畑を一枚分でも、あるいはたとえ二間だけの小さな家でも建ててやって、あいつに持たせてやるつもりだったんだ。
だがな、今はそれよりもまず、克の目をどうにかしてやる方が先なんじゃないかって、そう思うようになった。
……まあ、どうせ後になってからやるのも、今すぐやるのも、結果は同じことだ。そのつもりで、『家に家を建てる』か、それとも『克の目の手術代にする』か、どちらかだと思って、わしもこの際、できる限りのことをしてやるワイ!」
おじさんはキセルを持ち直すと、また深く考え込みました。
「ありがとうございます……! 本当に、ありがとうございます……!」
お母さんは何度も何度も頭を下げました。
するとおばあさんが肩で息をしながら、すりすりと体にじり寄ってきました。
「お前、それじゃあそのお金はドブに捨てるような『死に銭』になっちまうんだよ? いつまでも借家住まいのままでいいわけがないし、先のこともちゃんと考えておかなきゃいけないんだよ。克ひとりだけが子供じゃないんだからさ――」
それでもお母さんは、「ありがとうございます、ありがとうございます」と、ただひたすら頭を下げ続けるのでした。
やがて話し合いの結果、麦刈りのシーズンまでにはもう一度手術を受けさせるということになり、お母さんは改めてしっかりと手をついて、みんなに深々と挨拶をしました。
お茶碗を片づけていた太郎くんのお母さんも、健のことをどうぞよろしくと頼まれて、その場にきちんと座っておじぎをしました。

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