健ちゃんはおじさんといっしょに縁側の右手の入口へ回り、薄暗い土間に入っていきました。
太郎くんのお母さんが大きな鍋をさげてかまとこ(かまどのある場所)から出てきました。
「太郎さんのお母さん、今日は味噌汁を作ったんだよ。すごくおいしそうなにおいがするんだあ。」
「まあ、この子ったら。」
太郎くんのお母さんは、茶の間の上がり框の鍋すけ(鍋を置く台)に鍋を置き、土間の小縁(こえびり)で着物を着替えているおじさんと顔を見合わせて笑いました。
「ほんと健は変わったところがあるなあ。鶏が笑ったとか、蟻が走れと言わなくても走ったとか、とにかく細かいところをよく見ているんだよ。やっぱり太郎たちとはひと味違うな。」
おじさんは呆れたようにそう言いながら、帯を結び、かまとこを抜けて流し場の方へ手を洗いにいきました。
健ちゃんは草履をきれいに脱ぎそろえ、小縁をハイハイして上がると上の間をかけぬけて、太郎くんの横にすわり、
「健ちゃん、一等賞!」
と天井に向かって大声で叫びました。
でも、太郎くんは納得しません。
ひじをグイッとよせてせまってきました。
「違うよ、違うよ! 健ちゃんが一等なもんか、太郎が一等なんだぞ! こら、健ちゃんののろま、健ちゃんのびりっこ、びりかす、びり等賞め、馬鹿くそめ!」
「健ちゃん、慌てて草履を脱いじゃったからさあ……。」
健ちゃんは申し訳なさそうに額にシワをよせて言いました。
ただ、そこに座れば一等賞だと思ったのに、それがビリ等賞で馬鹿くそだと言われたのは、自分がのろまだったからなんだと思い、一生懸命に言い訳をしようとするのですが、言葉までものろまになって引き返してくるのでした。
そうなると太郎くんはますます許してくれません。
むきになって健ちゃんをツンツンと小突きまわしました。
「まったく健ののろまめ、健はいつでものろまなやつだなあ! 健の馬鹿くそめ、健はケがつくケン十郎、ケレレンのケレブクロをケッタカ、ケッタカ! 蹴飛ばしてやるぞ。この野郎! もう健ちゃんは自分の家に帰りなさい! 健ちゃんはうちの子じゃないんだから、自分の家に帰りなさい!」
健ちゃんは泣きそうになりました。
助けを求めてまわりを見回しましたが、おばあさんは仏壇におひかり(お灯明)をあげに立っていて、そこにはいませんでした。
太郎くんはますます調子に乗りました。
「こら健、帰れって言ってるのに、どうして帰らないんだよ! もうご飯なんか食べさせないぞ!」
「だって健ちゃん、帰ってもお母さんがいないんだもん、帰ったらどうするのさ?」
健ちゃんは太郎くんと膝をつき合わせて、一生懸命でした。
「いいから帰るんだよ! ここは太郎の家なんだから、帰れ、一人でさっさと帰れ!」
「だって健ちゃん、誰といっしょに寝るのさ?」
健ちゃんの声がだんぶるふるえてきました。
「一人で寝るんだよ! 一人で寝てたら、化け物が出てきて食べちゃうぞ! ほら、さっさと帰れ!」
太郎くんがしつこく小突いていると、秀子ちゃんも調子に乗って健ちゃんのうしろに回り込みました。
健ちゃん一人で帰りなさい! 健ちゃん、大嫌い!」
二人に挟まれて、健ちゃんはカチコチにかたくなっていました。
やっと奥の間からおばあさんが出てきました。
おじさんも上がってきました。
「こら、みんな喧嘩をしちゃいだめじゃないか。三人仲良くしなきゃだめだよ。」
「誰がいちばんおとなしいかな?」
おじさんもおばあさんも、三人の顔を見比べました。
みんなおとなしく膝の上に手を置きました。
健ちゃんだけが、大きなため息をつきました。
太郎くんのお母さんが、おひつにご飯をよそって上がってきました。
もやもやと白い湯気が立ちのぼっています。
おじさんが窓を背にして、引き出しのついた高いお膳にすわりました。
その前の大きなちゃぶ台を囲んで、右側に太郎くんと健ちゃんがならび、左側に秀子ちゃんとおばあさん、そしておじさんの真向かいの一番上がり框に近い場所にお母さんがすわりました。
おばあさんとお母さんのあいだには、鍋とおひつが置かれました。
「ほら、小さい順からね。」
おばあさんがご飯をついでくれました。
「ほら、今度は大きい順からね。」
お母さんがお味噌汁をよそってくれました。
今日はめずらしく、小さな煮魚がついています。
秀子ちゃんはおばあさんに身をほぐしてもらいました。
太郎くんはお母さんにほぐしてもらいました。
健ちゃんは家にいるとき、東隣の漁師のおっさんと大の仲よしで、毎日魚を食べ慣れているので、自分で上手にほぐしました。
左の指でおさえながら、お箸をうまく使ってはさんだり、ときどき左手でつまんでお箸にはさんでお口に入れたりしました。
頭の上でぱっと十燭(じゅっしょく)の電球がともり、薄暗くなりかけたお部屋が一気に明るくなりました。
それを見上げながら健ちゃんはお米をかきこみ、ふと耳をすましました。
門の戸が閉まる音がします。
足音が近づいてきます。
入口の障子戸がガラッと開き、誰かが入ってきました。
「今晩は。」健は、お箸を持ったままみんなの顔を見回しました。
みんな健の顔を見てニコニコと笑っています。
「ほらほら、誰か来たぞ。健の大好きな人じゃないのか!」
おじさんが真面目な顔をして言いました。
健は心臓が飛び出るほどびっくりして、持っていたお茶碗をそっと下に置きました。
「健ちゃーん!」
お母さんの声でした。
お母さんが優しく笑っているときの、あの声です。
健は嬉しさと恥ずかしさでもじもじしました。
太郎くんのお母さんが振り返って、「さあ、お上がり。」と言いました。
「今日のお戻りかいね、一人で帰ってきたのかい?」
おばあさんが土間にむかって声をかけました。
「はい、克子(かつこ)を近所の人にお願いして、飛んで帰ってきたんです。健が待っているだろうと思ってさ。」
お母さんは上がり框(あがりかまち)のすどをあけて、お話しながら敷居のそばに座り、「どうも長い間お世話になりました」とていねいに手ををつきました。
みんなはお母さんのほうを見ていますが、健だけは横を向いたまま下を向いていました。
お土産の帽子を持ってそばにやってきて座っても、その帽子を顔のそばにつき出されても、やっぱり横を向いたままだまりこんでいます。
鳥の羽がついた兵隊さんの帽子は太郎くんとおそろいで、太郎くんはもうそれをかぶって、手を振りながら部屋を歩き回っています。
秀子ちゃんも小鳥の車を引っ張って座敷をかけまわっています。
「健、いい子でお留守番できたねえ。」
お母さんが健の頭をなでました。
「健、どうしたんだい、船を見て大声で叫んだりしていたのに、お母さんのことは忘れちゃったのかい?」
おばあさんが顔をのぞきこみました。
健は歯をくいしばって息をこらえているらしく、「くっ、くっ」という小さな声がもれました。
何かはずみで泣き出してしまいそうなのを、一生懸命に我慢しているのです。
おばあさんがまた何か言おうとしたのを、お母さんは手を振って止めました。
みんなは、わざと知らないふりをしてあげていました。
「それで、克子の目はどうなんだい?」
おじさんが一番にたずねました。
初級翻訳・大根の葉 第9話
壺井 栄
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