初級翻訳・二十四の瞳 第23話

二十四の瞳

「ほらみい、ほらみい!」
こんどは先生が笑いながら、
「でも、月夜のような気もするわね……」
と言うと、女の子たちは両手をあげて、飛び跳ねてよろこんだ。
みんな、そうやって騒ぐのが面白かっただけで、誰もそれを本気で考えてはいなかったのだが、正だけは真剣な顔で先生を見上げ、
「バカ言っちゃいかんよ、先生!」
と言った。
すると女の子たちがまた、わっと騒いだ。
「先生をバカだと言った!」
「ほう、タンコは先生をバカだと言ったぞ!」
正は頭をかき、みんなが静まるのを待つと、やっぱり真剣な声で言った。
「放っといてよ先生、それにはちゃんとしたわけがあるんだからな」月夜になるとね、カニは馬鹿じゃないから、自分の影法師をお化けだと思ってびっくりして、身がやせてしまうんだ。
でも闇夜になると、影法師がうつらないから、安心して身が太るんだよ。
だから、月夜にカニが網にかかっても、逃がしてやるものだろう?
身がスカスカで、おいしくないんだから。
闇夜まで置いておくと、しっかりとした身がついて、うまくなるんだ。
本当なんだよ、先生。
嘘だと思うなら、試してみるといいよ」
「じゃあ、みんなで試しましょうね」
冗談にそう言ってその日は終わったのだが、その翌々日、森岡正は本当に月夜のカニを持ってきた。
一時間目の算数が始まる前、ひょうたん籠を突き出してきたのである。
「先生、カニ。
月夜のカニ。
やせていて、おいしくない月夜のカニ」
それは今朝とれたばかりで、まだ生きていた。
がさごそと音がしている。
みんな笑った。
「本当にもってきたの、タンコさん」
先生も笑って、仕方なさそうに受け取った。
カニは、この期に及んでもまだ自分の運命をなんとかして切り開こうとでもいうように、狭い籠の中をがさごそと這いまわっていた。
どういうわけか、二匹とも、大きなハサミを片方だけもぎとられた哀れな姿で、残った片方のハサミを上に向け、近づくものは挟んでやるぞという構えで泡をふいていた。
「かわいそうに、これ先生が食べるの?」
「うん、約束だもん」
「逃がしてやりましょうよ」
「いや、約束だもん」
正は後ろをふりむいて「なあ」とみんなの賛成を求めた。
男の子は手をたたいて喜んだ。
「じゃあこうしましょう。
あとで用務員さんにこれを煮てもらい、今日の理科の時間に研究しようじゃないの。
それから、『カニ』っていう題で作文も書いてくるの」
「はーい!」
「はーい!」
大賛成だった。
籠は窓際の柱の釘にかけられ、その時間中カニはがさごそと音を立てつづけてみんなを笑わせた。
授業が終わると、先生はひょうたん籠をはずし、自分で用務員室のほうへ歩いていった。
小ツルとコトエが何か用ありげについてきて、
「先生」
と呼びかけ、先生がふりむくのを待って、言った。
「マッちゃんのこと……」
「マッちゃん?」
「はい。
マッちゃん、ゆうべの船で、大阪へ行ったんよ」
「ええっ」
思わず立ちどまった先生の顔を見上げながら、コトエが、一生けんめいの顔で、
「親戚の家へ、働きに行ったんよ」
「まあ……」
「それで、マッちゃんのおうちは、お父さんと男の子が残ったんよ」
「そう……マッちゃん、うれしそうだった?」
コトエは答えずに、かぶりをふった。
小ツルがかわって言った。
「マッちゃん、行きたくないって、はじめは庭の入口の柱に抱きついて泣いたんよ。
マッちゃんのお父さんが困って、はじめはやさしげになだめたけれど、なかなかマッちゃんが離れないので、しまいには頭をげんこつで殴ったり、背中を叩いたりしたんよ。
マッちゃん、おいおい泣いてみんな困っちゃったの。
よろずやのおばあさんが、ようやくおだてて、納得させたんだけれど、まわりのみんなももらい泣きしちゃった。
私も涙が出てきて困ったわ。
途中の道まで、みんなで見送りに行ったんだけれど、マッちゃんは一言もしゃべらなかった。
なあ、コトやん。
それでね……」
急にハンカチを顔にあてて、くっくっと泣きだした先生におどろいて、小ツルはだまった。
いつの間にか早苗やマスノも寄ってきて、片手にひょうたん籠を持ったまま、うつむいてハンカチを目にあてている先生を、痛々しそうに見つめていた。
みんなの目にも、誘われるように涙がこみ上げていた。
そのあともしばらくは、窓ぎわの前から三番目の松江の席はあいたまま置かれてあったが、あるとき、その松江がたった一日すわった席に、先生はだまって腰かけていた。
そのあとすぐ席の組みかえがあって、その列は男の子の席になった。
それきり松江の噂は出なくなった。
先生もきかず、生徒も言わず、松江からの便りもなかった。
もうみんなの心から、松江の姿は追い出されてしまったのだろうか。
別れのあいさつにも来ずに、どこかへ行ってしまった五年生の女の子……。

そして、もうすぐ六年生に進級するという三月の初めだった。
春は目の前にきているのに珍しく雪が降る中を、バスに一回乗り遅れた大石先生は、学校前の停留所から傘もささずに走って、職員室に飛びこんだとたん、異様な室内の空気に思わず立ちどまり、だれに話しかけようかというふうに十五人の先生たちを見まわした。
みんな心配そうな、こわばった顔をしていた。
「どうしたの?」
同僚の田村先生にきくと、しっ、というような顔で田村先生は奥まった校長室のほうへ、あごをふった。そして小さな声で、
「片岡先生が、警察に連れていかれたんだ」
「えっ!」
田村先生はまた、静かにするようにと細かく顔をふりながら、
「いま、警察が来ているのよ」
と、また校長室の方を目で合図し、さっきまで片岡先生の机を調べていたのだとささやきました。
まだ誰にも詳しいことは分かっていないようで、みんなで火鉢を囲んで黙り込んでいましたが、はじまりのチャイムが鳴ると、やっと生き返ったように廊下へ出ました。
田村先生と肩を並べると、
「いったいどうしたの?」
大石先生はすぐに尋ねました。
「アカ(共産主義者)だっていうのよ」
「アカ? どうして?」
「どうしてだか、私にも分からないわ」
「だって、片岡先生がアカだなんて? どうしてそんなことに?」
「知らないわよ。私に聞かれたって」
ちょうど教室の前まで来ていました。
笑って別れはしたものの、二人の心にはしこりが残っていました。
何も知らない様子の生徒たちは、雪ではしゃいでいるのか、いつもより元気に見えました。
教壇に立てば、すべての余計な雑念を忘れなければなりませんが、教壇に立ってからの五年間で、大石先生にとってこの授業の時間ほど長く感じられたことはありませんでした。
一時間目が終わり、職員室にもどると、みんなはほっとした顔をしていました。
「警察、帰ったよ」
笑いながらそう言ったのは、若い独身の師範学校出身の男の先生でした。
彼は続けて、
「正直に真面目にやっていると、馬みるってことだな」
「何言ってるのよ。もっと先生らしくしなさいよ……」
ツッコまれた大石先生は、それ以上言うのをやめました。
ツッコんだのは田村先生でした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました