初級翻訳・天馬 第3話

天馬

「ぼく、玄竜という者です」

髪をきれいにとかして分けたボーイは、「またこの野郎が来やがったな」といった冷ややかな目を向け、彼の上から下へとじろじろ眺めてから、こう言った。
「あいにくお出かけですが……」
「出かけた?」
玄竜は、いかにも意外だという表情を浮かべ、しかも自分はそんなふうに驚く資格が十分にあるんだと言わんばかりの態度で聞き返した。
「いったい、誰とだ?」
「はあ……」
ボーイは少し気圧されて、縮こまった。
「その、なんでも雑誌社の方でしょうか」
「雑誌社の方?」
はたと悪い予感に襲われて慌てて問い返す玄竜の顔には、明らかに動揺したような、焦るような不安の影がすっと横切った。

それはきっと大村に違いない。
大村だとしたら、これは一大事だぞ、と彼は思った。
だからこそ、息せき切って聞き返したのだ。
「U誌の大村君じゃないのか?」
「さあ、それはわかりませんよ」
今度は横の方から、別の中年のボーイがいかにも怒ったような口調で割り込んできた。

実際、日本のアート界から有名な誰かがやってくると、どうしようもない自称文学者たちが、まるで自分が朝鮮の文壇を代表しているかのような顔をして押しかけてくるため、ボーイたちもうんざりしていたのだ。
ちょうど今も、田中が大村やある専門学校の教授に付き添われ、後ろには朝鮮人のそうした自称文学者崩れを四、五人ぞろぞろと引き連れて出かけたばかりだった。
玄竜はとりわけこうした訪問の癖がひどく、毎日のようにお客を訪ねてくるものだから、ボーイたちにとっても持て余す存在だったのだ。
「一々そんなことまで覚えていられませんからね」
「へぇ、なるほど、こりゃどうも。へへへ、そうでしょうな」
玄竜はそう言いながら自分の頭に手をやり、卑屈そうにへらへらと笑ってみせた。

けれど、どうしてもそのことが気になって仕方がなく、
「……ひょっとして大村君じゃないだろうな。いや、きっとそうにちがいない」
と、何度もひとりで強くうなずいてみせた。
それから急に首を突き出し、手で奥のロビーの方を指しながら、
「ちょっとソファーを借りるぜ」
と言い残すと、くるりと背中を向けた。

そして、ロビーという場所は人を待つのに打ってつけだと、自分はそんなことを誰よりもよく知っているんだと言わんばかりの様子で、肩を揺らしながらゆっくりとロビーの方へ歩を進めた。
そういえば、彼の書く小説には決まって、ホテルのロビーや、ダンスホール、サロン、貴族の夫人、黒人の運転手といったものがやたらに登場していたのだった。

ところで、彼は何を思い出したのか、ふと立ち止まると、振り返って大声で言った。
「田中君が戻ってきたら、伝えてくれよ。
へぇ、なにしろ眠いんでね」

***

**二**

広々としたロビーのソファーに横になり、大きな鼾(いびき)をかきながら、優に四、五時間は心ゆくままに眠りをむさぼった玄竜は、洋服についた埃をパンパンと払い落としながら、もぞもぞと起き上がった。

ロビーの中はすでに薄暗く、人影もなくがらんとしていた。
両手を大きく広げてゆっくりと伸びをし、何度もあくびを繰り返す。
すると急に、お腹が空いてきただけでなく、田中がいつまで経っても帰ってきそうにないことに気づき、とりあえずここから出ようと思い立った彼は、寝ぼけた顔を突き出して帳場の様子をこっそり窺ってみた。

ところが、ちょうど幸運なことに帳場には誰もいなかった。
彼はすかさず、まるで脱兎(だっと)のごとき素早さでそこを抜け出し、外の冷たい空気の中へと飛び出したのだった。

すでに午後の日差しがうっすらと寂しげに大通りに影を落とし、冷たい風があちらこちらで埃を巻き上げている。
どこかで安いご飯を食べ、それからまずは田中たちが一団で行きそうな場所をしらみつぶしに探し回らなければならない、と彼は心の中で考えた。けれど自分にもどういう訳かははっきり分らないが、彼は再び歩き出しつつ怪しからんと憤ろしげに呟いた。
恐らく田中が自分に朝鮮へ来るからという知らせの葉書一枚もくれなかったことをいうのであろう。
確かに彼は自分が朝鮮に帰って今は歴とした大家になっているなどと、あられもないことを何度も云ってやった筈だのに。
わが京城は黄金通りを境界線として、その以北が純然たる朝鮮人街である。
長谷川町から黄金通りへ出、茶房リラの前へ通りかかった時、玄竜は一寸覗くだけにしようと首を突き入れ一|亘り紫煙の中を見渡したが、そのとたんにわれ知らずにこりと笑った。
一杯人々のとぐろを巻いているさ中に、目もさめるばかり真白く着飾った女流詩人文素玉が、百合のように楚々と坐っていたのだ。
彼は急に幸福な気持になって転ぶようにその中へはいって行った。
有名な玄竜が現われたので人々はお互い突つき合ったり、ぷっと吹き出したり、わざと蔑むようにそっぽを向いたりしていた。
女流詩人は丁度若い大学生の恋人を待っていたところだが、こういう注視の的の小説家が自分の方へやって来る嬉しさに、つい何もかも忘れてしまい、やや大きいめの脣を歪めて含み笑いながら彼を迎えたのだ。
「あらまあ、玄さん、珍しいですこと」
「へへえ、これは又|至極面白いところで……」
 と近附くや、玄竜は彼女の向い側の方にどっかりと坐り込んだ。
皆の好奇の目は一斉にこの二人の方へ注がれた。
尤も彼等は皆とっくからもう退屈していた。
だが、退屈といえば毎日のように退屈な連中ばかりである。
所謂茶房の彼等も亦現在の朝鮮の社会が生んだ特別な種族の一つであろう。
少しばかり学問はあるが職は与えられず、何もなすことがないので髪でもクラーク・ゲーブル式に分けてみようといった手合とか、或はどこかに製作費を出すような莫迦息子はいないものかと、首をひねり合うちょび髭を生やした映画不良やら、何かこそこそと隅っこで企み合う金山ブローカー達、原稿用紙の束を片手に持って歩かねば芸術家でないと思い込んでいる低級な文学青年、そういった連中ばかりだが、さすがに彼等も二三時間以上も頑張っておれば、話題は尽き頭も疲れていた折なので、突然玄竜が現われ美しい女流詩人と向い合うようになったことは、確かに興味深いことに相違なかった。
京城の文化社会で誰一人知らぬものはない二人が偶然そろいもそろって対坐した訳である。
それに文素玉は玄竜にとっては単なる女流詩人ではないということも、彼等はよく知っていたのである。
「今日は又どうなさいまして」
 彼女はわざと恥らうように口元へハンケチをあてがった。
「実は――ヘーノイエ・シュタット(新町)に行って来たんですよ」と云って、玄竜はいかにも好奇心をそそるようににやにやと笑いを浮べた。
むろん女流詩人はそのドイツ語の意味を知るよしもなかったので、
「え?」
 と目を丸くするや、彼はいよいよ得意げに腹の皮をよじらせつつ笑うのだった。
そして又思い出したようにふふふと笑った。
頽廃のかげりを宿した彼女の頬には紅潮がほんのりとさし現われ、ちぢれた前垂れの髪はゆらぐかの如く見えた。
玄竜は急に痙攣でも起したように強ばって、ぐっと食い入る目附で彼女の顔を凝視した。

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