初級翻訳・天馬 第12話

天馬

そうだ、これこそが朝鮮の知識階級による生々しい自己反省なのだ。これをぜひとも日本の読者に知らせてやろう。
「あの有名な尾形に自分の眼力が負けてたまるか!」と力みつつ、田中は心の中でしみじみと深い喜びを感じていた。
「支那人のことなんか分かるはずがない」と決めつける連中は、愚の骨頂というものだ。
朝鮮人のことだって、たった二日で見抜いたこの調子なら、自分なら四日もあれば完全に理解し尽くして見せられるぞ、と心の中で大きく叫んでいた。
とにかくそのためには、ぜひともこの玄竜を「朝鮮の代表的なインテリ」として仕立て上げて記事に書かねばならないと、頭の中でしっかりと構成を練り上げていたのである。
だが、角井にとっては玄竜の様子が滑稽でならず、ついに勝ち誇ったような気分になって、意味ありげにじろりと玄竜の方を睨みつけてから、こう田中に話しかけた。
「大村さんはやけに遅いですな。一人で先に帰ってしまったんでしょうかね」
彼は、玄竜が大村を雷のように恐れていることをよく知っていたからだ。
「えっ、大村君が?」
それを聞いた玄竜は、まるで一瞬にして酔いがさめたかのように目を大きく見張り、ガバッと勢いよく体を起こした。
「大村君、大村君と一緒にいらしたんですか!?」
「いや、そこら辺で何か買い物をするとか言っていたけどね」
怪訝そうな顔をして答える田中の話を聞いて、玄竜は「あ、これはまずい」と激しく慌てふためき、
「そうなんだよ!」と自分でも訳の分からない大声を張り上げた。
「だからこそ、僕和大村君と力を合わせて、この朝鮮民族をより良くするために一生懸命努力しているんだ!
話はとってもシンプルなんだよ。
朝鮮人のすべてが、今までのような古くさい思想からすっきりと抜け出して、東亜の新事態をしっかりと受け止め、そして心の底から大和魂の洗礼を受けること――それしかないんだ。
だからこそ僕は、まわりの連中から『頭がおかしいんじゃないか』とまで言われながらも、大村君の編集する雑誌にいつも大反響を呼ぶような刺激的な論文を書き続けてきたんだ!」
そこで彼は急に声をひそめ、首をぐっと突き出して尋ねた。
「ねえ、大村君は僕のことを何か言っていなかったかい?」
「いや、特に何も……」
田中はお茶を濁すようにはぐらかしたが、玄竜はまたすぐに元の調子に戻り、調子よくまくし立てた。
「大村君はね、本当にいまの時代には珍しいくらい立派な男なんだよ!
だから僕なんかは、民間の立場でありながら率先して全力を尽くして彼を支えているのさ。
だけど残念なことに、あの素晴らしい大村君でさえ、本当の芸術家というものが分かっていないんだよなぁ。真の芸術家というのがさ……だから田中、君みたいな一流の作家が、彼を大いに啓蒙してやるべきだと思うんだよ。
ハムレットでもあるまいし、僕に『お寺へ行け』なんて無理難題を言うんだから、笑っちゃうよねぇ。
しかも聞いてくれよ、尼寺に行くってならまだしも、ハゲ坊主のいる寺に行けと言うんだからね。
ねえ、僕がそんなオフェリヤみたいな役回りかい? 僕はこう見えても、恥ずかしながら頭はしっかり冴えてるんだからね!」
角井は、あまりの哀れさに同情するような冷ややかな笑みを田中に向けつつ、「もうこんな連中はほっといてさっさと出ようぜ」というふうに、田中の洋服の裾をそっと引っ張った。
そのとき、玄竜が妙に喉の奥に絡んだような声で大きな見栄を張っていると、まさにその当の本人が、悠然と店の入り口から入ってきたのだ。
見たところ四十歳前後の、堂々とした立派な紳士だった。
玄竜はすっかり青ざめて慌てふためき、引きつった笑いを浮かべながら自分の首筋に手をやり、ペコペコと頭を下げた。
角井はすぐ傍らで意地の悪そうな声を出して、「けけけっ」と突然吹き出した。
大村は、そこに玄竜がいるのを目撃すると、急にひどく不機嫌そうな顔をして怒鳴りつけた。
「どうしたんだ、君はまたこんな所でくだを巻いているのか!」
「へへっ、大村さん、いや、何でもありませんよ」
玄竜は体をくねらせながら大村にすり寄り、腰をぐっとかがめた。
「……実はですね、田中君を一日中ずっと探し回っていたんですよ。
それで、すっかりお腹がペコペコになっちゃったもんですから……つい、その、へへっ」
「おい、どうしたんだ、お寺の件は! ぐずぐずしないで一日も早く行ってきなさい!」
「はあ……」
縮み上がった玄竜は、あまりの気まずさにもじもじと身悶えするばかりだった。「それはもうよく分っているんです」
大村は角井や田中ににやりと目配せをしてみせ、それから遠来の客もあることなので自分が朝鮮にいて如何に朝鮮人のためを思っているかを身をもって示さねばならぬと考えた。
「早く謹慎の状をみせるんだ! 警察の手に君を渡すに忍びない気持があるからこそ、立派な和尚さんの所へ行って頭を直して来いと云うのじゃ。
要するに君のような人間たちの魂を引き上げるためなんじゃ。
煩悩を断つんだぞ、煩悩を」
「はあ、だから僕も……」
「分ったか、宜しい」そこで得意げに一度肩を張った。
客達は皆目をきょとんとさせてこの光景を眺めていたが、さすがに田中は感慨無量そうに目をつぶったまま聞いていた。
「今はどういう時局だと思う。
はっきり時局を認識しなくてはいかん。
酒場を飲み倒したり、女を強奪したり、人を恐喝するなどもっての外じゃ。
君は内鮮一体内鮮一体と気違いのように叫び廻るけれど、朝鮮人は誰一人君を相手にしないそうじゃないか。
もう少し反省するんだ。
まともな人間に帰れと云うのじゃ。
分ったか、わしが君を応援することにつけ込んで、人の好意を利用するなんて絶対に許されん。
莫迦奴! そんなに恩知らずだとはわしは始めて分った!」それから自分の語調に感動しついには興奮してしまった。
「全く恩知らずの悪い奴め! まだ君の悪いことが分らんのか。
内鮮一体ちゅうのは君のような人間の魂まで引上げて内地人同様にしてやることなんだぞ」
「それはそうです、だから僕は人に気違いとまで云われる程の熱情でそれを主張して来たんです。
そうですとも、実際男分の日本が女分の朝鮮に手を伸して仲よく結婚しようと云うのにその手に唾をひっかける理由はないですからね。
一つの体になることによって始めて朝鮮民族も救われるんです。
僕は感激しているあまり朝鮮人に誤解さえ受けているのです。
朝鮮人ちゅうのは一体に猜疑深い劣等民族ですから」
「それは待った」と大村は手を上げて思い深げに差し止めた。
「朝鮮人の君達はあまりに自虐性にかかっている。
わしの周囲にいる朝鮮人は皆自分の民族の悪口ばかり云って来るがそれが先ず第一いかんことじゃ。
分ったか。
もちろん反省し自分達の悪い点をなおすことは肝腎じゃ。
だが自分を大事にしなくちゃいかん。
大事に。
それが出来ないのが、他の民族に劣る点じゃ。
内地人を御覧! 内地人は決してそんなことはない」
「そうですよ、だってそうじゃないですか」と玄竜は慌てふためきつつ何の前後脈絡もないことを叫び始めた。
彼は自分が何時か書いたことのある、至って学術的な文句を先から思い出してそれで頭が一杯だったのである。

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