「少くとも地理的にみても、考古学的にみても、それから人類学的にみても、即ちアントロポロジー的にみても、生物学的にみても……」
こうしきりに並べたてる時、角井ははたと学者的な良心に突き当ったので、
「それは君、アントロポロジーじゃなくてアントロポロギーだよ」と訂正した。
「そうですよ、そのアントロポロギー的にみても、又フィロロギー的にみても日本と朝鮮は男と女の相違しかないんです……」
大村は彼のこのペダンチックな慌て方がおかしくてひとりでにやにや嗤っていたが、ふとそれを見た玄竜はもう大村が自分の熱情に気をよくし直したのに違いないと考えたので、いきなり全身をぐっと前に乗り出して、
「ところが大村さん」と叫んだ。
「田中君とは僕はかけがえのない親友なんですよ」
だが大村は云うだけ云ったというような調子で、くるりと田中や角井の方へ向き直って云った。
「さあ、もうそろそろ引上げましょうかな。
大抵どんなものか見当がついたでしょうな」
「ああ大村さん、もうお帰りになるんですか」
と玄竜はびっくりして、急にばね仕掛けにでも弾かれたように大村の腕へ獅噛附くように飛び出した。
が、そのとたんに落ちていた桃の枝に足元がひっかかったので、彼は咄嗟にそれをすくい上げて抱え込みながら喘いだ。
「大村さん、大村さん!」
「どうしたんだね、それは又」と大村は不審そうに体を反らしてじっと見つめたかと思うと、「そんな様をして又歩いているのか、君のことはもうわしは知らん!」
「大村さん、大村さん」玄竜は急にへなへなに腰がくだけて悲しげに叫んだ。
「あまりに花がいたいけないので街で百姓から買って来たまでなんです」その時自分の飲み代まで角井が払いをすましている様子なのを見て、彼はきまり悪くなったのか、慌しく田中の方へ廻って来て袖を引張りつつせき込みながら、
「田中君、田中君、実は君に折り入っての話があるんだよ」
と哀願するように呻いた。
「もっとつき合ってくれな、もっと」
「ほう、これはいい花だね」
と、田中はまぎらわせる様にしどろもどろに呟いた。そこで玄竜は、まるで自分が勝ったんだぞと言わんばかりに急に元気を出して、桃の枝を肩に担ぎあげると、
「そうだろう、いい花だろう! 桃の花だよう、桃の花なんだ!」
と、大声で銅鑼(どら)のような声を張り上げ、まるで兵隊ごっこをする子どものように先頭を切って歩き出しました。
やっぱり自分も、このえらい人たちにくっついて一緒に歩き廻りたかったのです。
大村と角井、そして田中は、やれやれといった様子で苦笑いしながら、あとからぞろぞろとついて来ました。
ぼんやりとした月がぽっかりと空に浮かんでいましたが、細い道は相変わらず薄暗いままでした。
玄竜はちょっとおどけて、桃の枝をかついだまま体を揺らしながら二間(約3.6メートル)ほど進軍していきましたが、突然ピタッと立ち止まって胸を張り、空を見上げました。そして、突然桃の枝をまたの下に引きずり込むようにして、まるで馬に乗るような格好をしたかと思うと、天に向かって合図するように手を大きく振り、ケラケラと声を出して笑いました。
ほかの三人は知らないふりをして、彼の横をすたすたと通り過ぎていきます。
すると玄竜は慌てて、さらに声高らかに叫びました。
「僕は天に上るんだ! 天に上るんだ! この玄竜が、桃の花に乗って天に上るんだぞ!」
そして、まるで木馬に乗ったかっこいい勇士のように、すっすっとみんなの脇を追い抜いて進んでいきました。
「ぼくのこの思いがけない、すごい神秘主義の姿を見てくれよ!」と言わんばかりに。
そのせいで、可哀想な花たちは無残に首を折られ、花びらをめちゃくちゃに汚しながら、あちこちにぽろぽろと散らばっていきました。
でも、玄竜はふと思い出したように振り返ってみました。すると、田中が一人だけ暗いゴミ捨て場のそばで、おしっこをしているところでした。
「今だ!」と思った玄竜は、そのそばへサッと飛んで戻ると、ハァハァと息をきらせながら、喉の詰まった声でささやきました。
「田中くん、大村くんに僕のことをよく頼むよ。お寺へなんかに連れて行かれないようにしてくれよ、頼むからお寺へは!」
その声があまりにも絶望的な悲しさに震えていたので、田中はびっくりして玄竜の顔をじっと見つめました。
ぞっとするほど引きつっていた顔が、急にぐにゃりと崩れて、なんとも気味の悪い笑顔が浮かびました。
それから玄竜は、自分の片方の手で田中くんの肩を、なんだかへり下った様子でポンと叩きました。
「あの大村ってやつは、どうせお役所人間だから、ペコペコしてやらないと機嫌をなおさないんだよ。僕らみたいな芸術家の気持ちなんて全然わかってないんだ……。明日、ホテルに行くからな!」
そう言い捨てると、再び「どうだ!」と言わんばかりに桃の枝にまたがり、地面に引きずりながら空を見上げてまた大声で叫びました。
「玄竜が天に上るんだ、天に上るんだ!」
そのすきに、大村と角井は田中を横道の方へと引っ張り、大きな通りに出ると、タクシーを止めるために手を挙げました。
細い道の方からは、ますます調子に乗った玄竜の叫び声が響き渡っていました。
五
結局、天には上れなかったのです。
翌朝、彼はいつものように狭い穴ぐらのような部屋の中で、苦しそうに悲鳴を上げながら目を覚ましました。
誰かにロープで首を締められるという、恐ろしい悪夢にうなされていたのです。
体中が汗でびっしょりでした。
何をするにも体を動かすのが怖かったようで、もう一度目をぎゅっとつぶり、荒い息をハァハァと荒く吐き出しました。
「本当に自分の首は無事なんだろうか……?」と、ドキドキしながら震えつつ、確かめようとそっと手を伸ばそうとしたその瞬間、指先に何かゴツゴツしたものが触れたので、彼はびっくりして固まりました。
「やっぱり本当にあるのか……!」と思いながら、目を閉じたままじっと息を殺しました。
まるで神様に祈るような気持ちで、今度は気付かれないようにそっと反対側の手を出し、慎重に首すじの方へと近づけようとしました。
「おや、思っていたほどでもないみたいだぞ」と思った矢先、また何かに指先が触れてギョッとなり、そのまま仏像のようにピクリとも動かなくなりました。
二、三分ほど経ったでしょうか。ようやく落ち着きを取り戻した彼は、「いったいそれは何なのだろう?」ともう一度ツンツンと突っついてみました。
気のせいか、今度は触れたものが少しだけ揺れたような気がしました。
「なんだかおかしいぞ?」と思いながら、二本の指でそれを挟んで、引っ張られるままにまさぐってみたところ、
「なんだあ!」
と、あきれ返ったような声を上げながら、彼は首すじの上にかぶさっていたものを慌てて払い退けると同時に、ガバッと跳ね起きました。
それはガサガサと音を立てて吹っ飛び、布団(オンドル)の上でポロリと揺れました。
それは他でもない、泥だらけになったあの桃の枝だったのです。
彼はフーッと大きく息を吐き出しながら、手で首すじの汗をぬぐいました。しかし、次の瞬間、まるで気が狂ったかのようにケラケラと笑い出しました。
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