そして、わざわざ古本屋へと彼女を引っ張り込み、自分のプロフィールが載っている三流雑誌を探し出すと、グラビアのページを開いて、「これが誰だかわかるかい?」と、得意げに自分の写真を指さしてみせたのだ。
「おーっ!」と、彼女は驚いたようなふりをした。
そこで彼はすっかりいい気分になり、周囲の目を盗んでいきなりその雑誌から自分の写真をビリッとちぎり取り、無理やり彼女のハンドバッグの中に押し込んだのである。
その後、そのアンナという女性は豆満江(とまんこう)の国境付近でスパイとして逮捕され、彼女の手元から件の写真が見つかったため、玄竜も同じスパイ容疑で留置場に入れられてしまったのだ。
このままではとんでもない大罪になるところだったが、大村が役所関係にさまざまなツテを使って必死にかけ合い、釈放してもらったおかげで、彼は何とか身柄を引き取ってもらうことができた。そのため玄竜は、大村に対して一生分の恩義を感じるようになったというわけである。
しかし、そうでなくても朝鮮の人々から野良犬のように見放されている現在の彼にとって、大村にまで見捨てられてしまえば、もう野垂れ死にするより道はなかった。
だが、今の朝鮮では愛国への熱気が次第に高まり、当初の目的もほとんど達成されつつあった。それにもかかわらず、愛国主義を盾にとって社会の秩序を乱し、あちこちで悪事を働く玄竜をそのまま放置しておくことは、大村自身の社会的信用に関わる問題だと言わざるを得なかった。
実際、玄竜の素行の悪さに関しては、警察当局からも厳しい非難や追及の声が上がり始めており、警察ですらそろそろ彼の内偵(秘密裏の調査)を始めるところだったのだ。
そこで大村は、警察へ突き出すには少し忍びないという気持ちと、自分自身の信心深さから、彼にお寺へ行って坐禅の修行をし、一刻も早くおとなしく反省した姿を見せてこいと命じたのである。
事態がここまで来てしまうと、玄竜もその命令を無視するわけにはいかなくなった。
いよいよこの二日のうちに、お寺へ出かけなければならなかったのだ。
だからこそ彼は、東京からやってきた作家であり、大村の大学の同窓生でもある田中が城下町にやってきたというこのチャンスにすべての望みをかけ、自分が寺に行かずに自由に動き回れるよう、大村に取り合ってもらうよう田中にお願いしようと企んでいたのである。
そのため、この計画はパリ娘のアンナに実際に会ったことよりも、彼にとってはるかに重大なことだったのだ。
「僕はこれから田中くんを捜しに、鐘路裏(ベルゴリ)へ行くところなんです。
さあ、そろそろ出かけましょうか!」
玄竜は急に元気を出し、トーストを一度に二切れも口に放り込みながら、いすからお尻を上げた。
「あたしも行くわ……あ、それ、いいわね!」
そう言って、女流詩人は彼の手から伝票をもぎ取って立ち上がったが、どうしたのか急に表情がこわばり、石のように固まってしまった。
やがて彼女は、少しおずおずとした様子になり始めた。
「おやっ?」と思って玄竜が振り返ってみると、店の入り口のところに、学生帽を深くかぶり、ひょろりと背の高い大学生が、顔を青く引きつらせてぽつんと立っていた。
そして、じろりと鋭い目で玄竜を睨みつけたのだ。
その瞬間、店内に流れていた悩ましいスペイン民謡のレコードの音がパタッと止まり、居合わせた客たちの視線が一斉にその三人のほうへと向けられた。
文素玉(ムン・ソオク)は慌ててそそくさと身をかわすと、入り口のほうへ行き、ドアを開けてその若い大学生を引っ張るようにして外へと連れ出していった。
玄竜は、まるで心を踏みにじられたようにポカンと立ち尽くし、その様子をぼんやりと見送るしかなかった。
店の奥の方からは、人々がクスクスと面白そうに笑い合う声が聞こえていた。ところが、それから三四分もしないうちに、彼女は慌てて彼のほうへ戻ってくると、「私のいとちなのよ」と息を弾ませながら小さな声で叫んだ。
「お芝居に行く約束をしていたのを、すっかり忘れていたんですの」
そして、はっと驚くような顔をしたかと思うと、
「明日の朝行くわね」
と彼の耳元にそっと囁き、再び鳥のように飛んでいってしまった。
「待て、待て!」
彼はあとから急に慌てふためいたように叫び、手を振りながら店の外へと飛び出した。
だが、外はすっかり暗い夜になっており、二人の影はどこへ行ってしまったのか、すでにどこにも見当たらなかった。
三
「くそっ、しゃくにさわる、畜生め! 覚えてやがれ」
小説家の玄竜は、肩をすくめながら何度もぶつぶつと文句を言い、朝鮮人街で一番賑やかな鐘路通り(ベルゴリ)へ向かって、どこか浮かれたような足取りで歩いていった。
あの女郎風情の女までが、この俺をバカにしている。少々調子に乗りすぎやしないか、と彼は心の中で呟いた。
なぜだか、大切な宝物を手から奪われてしまったような、そんな悔しい気持ちでいっぱいだった。
そう思うと、いつものように彼女の、不釣り合いに長い胴体の下にしがみつくような、あの大きく歪んだお尻が目の前にチラチラと浮かび上がってくる。それ同時に、胸の奥で温かい血がドクドクと波打ち、どうしようもない切ない快感がこみ上げてくるのだった。
彼は思わず息が詰まりそうになり、ゴクリと大きな音を立てて生唾を飲み込んだ。
その時、ふと自分の耳元で彼女の囁き声が聞こえたような気がして、ハッと驚いて後ろを振り返った。
しかし、そこに文素玉(ムン・ソオク)の姿などあるはずもなく、ただ道行く人が一人、怪訝そうな顔をして立ち止まり、彼の姿をじっと見つめているだけだった。
「くそっ、忌々しい」
彼は再び口に出して悪態をついた。
白い壁の大きな朝鮮人経営の銀行の前を通り過ぎるうちに、いつの間にか鐘路の四辻(交差点)のほうへと近づいていた。
あたりは急に騒がしくなり、人力車は走り去り、自動車は列をなして進み、電車はどことなくもどかしそうに警笛を鳴り響かせている。
百貨店の「和信」と「韓青ビル」という高層ビルをスタート地点にして、東大門(トンドンムン)のほうへと向かう大通りには、立派な建物がまるで海の波のようにずらりと並んでいた。
ちょうど交差点の角に建っている、大昔からの遺物である「鐘閣(ベル)」のほうへ出てみると、しゃがみこんでいた年老いた乞食たちが手を差し出し、きたならしい身なりの乞食の子供たちが、どこからともなく害虫のようにわらわらと群がってきた。
今年は、見違えるほど乞食の数がふえている。
彼は大げさに大きく手を振り回して、子供たちを追い払った。
韓青ビルの前あたりからは、歩道にも夜店が出ていて、ごった返す人々の流れで大混雑しており、売り子たちの威勢のいい掛け声がうるさいほどに響き渡っていた。
ちょうどその夜店が並ぶ入口のあたりでは、物好きなたくさんの人々に囲まれて、白い頭巾をかぶった農夫の男が、すっかり酔っ払っているのか手を激しく振りながら、何かを喉に詰まらせたような声でしきりにわめき散らしていた。
一体どうしたのだろうと、彼は首を伸ばして覗き込んでみた。男のそばには木の枠(支架)が立てられており、そこには大きな桃の花が枝いっぱいに結びつけられていた。
コメント