初級翻訳・天馬 第4話

天馬

軽薄な女流詩人文素玉は玄竜をこの上もなく尊敬しているのだった。
彼はいみじい詩の言葉、ラテン語やフランス語を知っているばかりか、彼女の好きなランボウやボードレールともただ国籍を異にしているだけに過ぎないと彼女は固く信じている。
玄竜は又自分でもそう嘯き廻っていた。
何しろ彼女は詩人としてもランボウの詩を幾つかもじってみた位のところであるが、それを玄竜が二三流の雑誌に担ぎ上げて彼女の美貌と共にその前途を謳ったのだ。
彼女がすっかり詩人になった気取りで、人の出版記念会とやらにはどういうことがあっても出席するようになったのも、それ以来のことである。
彼女が目もまがうようなあでやかな姿で会場に現われると、玄竜は何時もぶるっと立ち上ってこっちへ、こっちへいらっしゃいと自分の傍へ連れて来るのだった。
彼女も所詮は現代の朝鮮が生み出した不幸な女性の一人であるとも云えようか。
口を開けば合言葉である封建打破という若々しい熱情から、女学校を出るなり結婚問題さえふりきって東京にまで留学に旅立った彼女。
だが内地で専門学校を出ると同時に、曾つては自分が打破せねばならぬと云い且つ又闘ったつもりの封建性の復讎を、真先に彼女自身受けねばならなかった。
当時は結婚しようにも早婚のため妻を持たぬ青年はどこにも見附からなかったのだ。
あたら青春の血潮を如何ともすることが出来ず、こうしてだんだん男達と接触する中に乱倫の道に陥ち込んだ。だが彼女は、自分こそが真っ向から古い決まりに逆らい、新しい自由な恋愛の道を切り開くパイオニアなのだと思い込み、次々と自分の方から男を作っていくのだった。
玄竜もまた、その相手の一人にほかならない。
ただ一つ違うとすれば、それは玄竜との間だけは、お互いの狂おしいまでの思いにすっかり馴染みきって、お互いに大満足しているということくらいだと言わねばならないだろう。
「昨夜ね、U誌の大村君がまた僕のところにやって来たんですよ。いいですか、大村君がわざわざウイスキーを持ってね」
と、玄竜は話を続けた。
「今夜中に原稿を書き上げてくれなければ、どうしても帰らないなんて言うものだから、これにはさすがの僕も参ってしまいましたよ。
ちょうど東京向けの原稿を書いているところだったんですからね。
これがまた、ちょっとしたスグレモノなんですよ。
Dっていう一流雑誌から、もう三ヶ月も前からずっと催促されている代物なんですがね」
「楽しみだわ」
女流詩人はこの上なく感激した様子で、小さな目をキラキラと輝かせた。
「僕はもう、朝鮮語での創作なんてうんざりです。
朝鮮語なんかクソくらえですよ。
だってそんなものは、滅亡へと向かう呪いの言葉でしかないんですからね」
そこで彼は、昨夜の集まりのことを思い浮かべながら、いかにも出鱈目な大口を叩いてみせたのだ。
「僕はね、東京の文壇へ華やかに返り咲くつもりなんです。
東京の友人たちもみんな、それを熱心に勧めてくれているんですよ」
しかし実際のところ、文素玉のような女が、昨夜「明菓(みんか)」という場所で本当に朝鮮の文学を守り育てようと奮闘している真面目な文人たちの集まりがあったことなど、知る由もなかった。
玄竜にしたところで、どこかでその文人たちの集まりの噂をかぎつけ、会がほとんど終わる頃になってから、のっそりと姿を現したにすぎないのだ。
だが、そこには彼を朝鮮文化の恐ろしい怪物として憎み、排斥しようとする男女がずらりと並んでおり、各自が興奮と緊張の色をみなぎらせながら、朝鮮文化の一般的な問題や、朝鮮語による創作活動の是非について熱心に議論を交わしていたのである。
彼は「へへっ」と笑いながら、居心地が悪そうに部屋の片隅へ離れて、ちょこんと腰を下ろしたのだった。
そこでは皆が、自分たちの手で朝鮮の文化を築き上げ、その独自性を大きく伸ばしていくべきであり、その努力こそが結果的には日本全体の文化への貢献にもなり、ひいては東洋の文化や世界の文化のためにもなるのだと、熱く語り合っていた。
玄竜はその人々の顔を一人ひとりジロジロと見回しながら、まるで他人事のようにニタニタと笑うばかりだった。
ふと、若い血気盛んな評論家である李明植(イ・ミョンシク)の鋭い視線とバッチリ目が合ったことを、彼は覚えている。
その瞬間、彼は思わずギクリとした。
なんだか李は、怒りで神経の隅々までブルブルと震わせているようだった。
突然、李は興奮のあまり喉元をごくんと鳴らしながら、
「そんなことは自明の理だ!」
と叫んだ。
「朝鮮語でなくては文学が書けないと言っているわけではない。
僕はただ、言語が持つ芸術性のためにこのことを主張しているのだ。
何百年という長い間、古くさい漢学の重圧のもとで文化の光を一度も浴びることができなかった我々が、曲りなりにも自分たちの尊い文字や文化にようやく目覚めてきたのが今日ではないか。
李朝五百年の悪政の陰に埋もれていた文化の宝玉を発掘し、それによって過去の伝統を受け継ぐために、この三十年間、我々はどれほど血の滲むような努力を払って、やっとこれだけの朝鮮文学を築き上げてきたというのか。
この文学の光や文化の芽を、どうして我々の手で自ら葬り去らなければならないと言うのか!
だが、僕はだからといって、ただ無駄に感傷的になってこう言っているわけでもない。
本当に重大な問題なのは、朝鮮人の八割が文字の読めない人々であり、しかも文字を解する者の九十パーセントは朝鮮文字しか読めないという動かぬ事実なのだ!」
その時、玄竜は突然「きききっ」と薄気味悪い笑い声を立てた。
「静かにしろ!」
「黙れ!」
という怒号が、嵐のように巻き起こった。
「まあ、いい」
李はぐっと目をつぶり、高ぶる気を静めようと努めながら、かすかに震える声でさらに論を進めた。
「朝鮮語で述作することが、こうした人々へ文化の光を届けるためにも、また彼らを心から楽しませるためにも、絶対に必要なことなのは論を待たないだろう。
今だって厳として朝鮮文字の三大新聞やりっぱに文化の役割を果たしているし、朝鮮文字の雑誌や刊行物も大衆の心を豊かにしてくれている。
朝鮮語は明らかに、九州の方言や東北の方言といったものとは違うのだ。
もちろん、僕は内地語(日本語)で書くことに反対しているわけではない。
僕は決して、言語の偏狭な国粋主義者などではないのだ。
内地語で書ける人は、我々の生活や心、そして芸術を広く伝えるために大いに活躍してくれなければ困る。
そして、内地語で書くことに満足できない者や、実際に書くことのできない者たちの芸術のためにこそ、理解ある内地の文化人たちの支持と後援のもとで、どんどん優れた翻訳機関をこしらえて紹介するように努めればいいのだ。
『内地語で書け、さもなければ筆を折れ』などという一派の主張は、あまりにも言語道断というものだ!」
そう叫ぶと、彼は突然テーブルを叩いて立ち上がった。
「だからこそだ! 玄竜、君はこの問題をどう考えているんだ!?」
玄竜をじっと睨みつけるその瞳からは、火花が散るようだった。
彼はその瞬間、思わず縮み上がってしまったのである。

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