初級翻訳・親方コブセ 第1話

親方コブセ

X市で働く土工(どこう)たちの親方で、「コブセ」というあだ名の男の噂は、ずいぶん前から耳にしていました。でも、私がじかに彼と会ったのは、金鵄(きんし)勲章の値段がまだ九銭から十銭になる直前のことだから、本当にほんの少し前のことです。

それは、その市の会社で働いている友人・O君からこんな手紙をもらったのがきっかけでした。
「今度の日曜日は、この港町にいる八千人あまりの朝鮮の人たちの運動会なんだ。
どんな用事もやりくりして、ぜひ遊びに来てくれよ……」
私は、「それじゃあ、私もぜひ参加させてもらうよ」と返事を書き、ワクワクしながら出かけて行ったのです。

手紙にあった「朝鮮の人たち」というのは、私が以前に芝浦の飯場(はんば)のまわりにいた変な老人を小説に書いたとき、そんなふうなたとえ方をしたのを思い出して、O君が面白半分に手紙に書いてきただけのことです。もちろん、実際にそこで暮らしている朝鮮からの移住者たちのことでした。

さて、その日にX市に着いたのですが、約束の時間より一時間以上も遅れてしまったせいで、駅でO君と会うことができませんでした。しかたなく私はバスに乗って、彼の住んでいる××町二丁目へと向かいました。

とはいえ、バスを降りたとたんに、私はちょっと戸惑ってしまいました。
なぜなら、そこは荒波が打ち寄せる埋め立て地の水際で、いつものように朝鮮の人たちの掘立小屋やトタン囲いの家々がごちゃごちゃと立ち並んでいたからです。O君は大学も出た人だし、まさかこんな部落の住人ではないはずだと思ったのです。

部落の入り口あたりの道ばたでは、子どもたちが縄跳びをしていて、朝鮮の服の下に下駄をひっかけたおばさんたちが、路地の中を行ったり来たりしていました。
しばらくぼんやりと立ち尽くしていたのですが、「あの人たちにでも道を訊いてみよう」と思い直して歩き出したその時、急に後ろの方で大きなけんか声が聞こえてきました。

びっくりして振り返ってみると、タバコ屋さんの中で、四十代くらいの店主の男と、一人の小柄な男が、激しく怒鳴り合っています。
「どうしたんだろう?」と気になったし、「ついでにタバコを一つ買って、O君の家も教えてもらおう」と思ったので、私はそのままずんずん近づいていきました。

しかし、お店の中に足を踏み入れたとたん、私は「おやっ?」と思いました。
お客として文句を言っているのは、私の背の高さのちょうど半分くらいしかない、せむし(背骨が曲がった人)の男だったのです。大きなせ中のかたまりをゆさゆさ揺らしながら、今にも引っかかっていきそうな物すごい勢いで店主に食ってかかっています。一目見て、この男こそが噂の「親方コブセ」に違いありませんでした。

「コブセ」というのは、朝鮮語でせむしを意味する言葉です。噂に聞いていた通り、年齢は二十八、九歳くらいのようで、声も噂どおり、気味が悪いほどお腹の底から響くようなしわがれた低い声でした。

「おい、お前が課長だろうが、部長だろうが、班長だろうが、こちたgestion(こちとら)知ったことか! いったいお前の商売は何なんだい!」
「タバコ屋だよ」と、店主はコブセが振り回す手をよけようと、何度も体を後ろに反らせながらうなり声をあげました。
「へへっ、この野郎、今度は素直に答えたな。
お前がタバコ屋なら、こちとらは客だぞ。
いいか、この馬の骨め! お前のところじゃ、いつもお釣りを客の手のひらにポンッと投げ捨てるように渡すそうじゃないか、おい、本当かよ!」

「なになに? どうしたの?」
そのとき、店の奥からきれいな娘さんが、白い歯を見せてニコニコと笑いながら出てきました。
親方コブセは、ちらっと顔を赤らめたようでしたが、すぐに腕をふところに入れて胸を反らしました。
「へん、お前だな。
お釣りをポンッと投げ捨てるように渡すっていうのは?」

「……あら、そのことなの? だって……は、はい、本当に私が悪うございました」
そう言うと、娘さんはその場にひざまずいて、ペコリと頭を下げました。
「お父さんも謝ってよ。私​​が悪かったんだから。
これからは気をつけます」

私はぽかんとしてしまいました。
店主は不機嫌そうな顔でぶつぶつと何か文句を言っていましたが、彼も一度だけペコッと頭を下げました。

すると親方コブセは、はじめて私がそこにいることに気づいたように、じろりとこちらを見上げました。
「おい、お前、一つタバコを買ってみろ!」
と、あごをしゃくってみせました。

圧倒された私はあわてて十銭玉を取り出し、台の上に置きました。
すると娘さんは、タバコのお釣りを、
「はい、一銭のお返しです」
と言って、私の手のひらの上にぐっと押し付けるようにして渡してくれたのです。

小柄な親方コブセはそれを見ると、背中のかたまりをうねらせながら、自分の思い通りになったのがよほど嬉しかったのか、奇妙な声で「へへへへ」と意地悪そうに笑い出しました。
「その調子、その調子だ! やっぱりお前はかわいい、いい子だな!」
それから、荒っぽく戸をガラリと開けて外へ飛び出すと、両腕をわきでひらひらと振って、地面を這うように反対側の部落へと駆けていきました。

おまけにすごい引きずり足だったのですが、勝どきを上げるみたいに「へへへへ」と笑い続ける声が、かすれながらも聞こえてきました。
娘さんは面白そうにクスクサと笑いました。

しばらくポカンと立ちすくんでいた私は、「そうだ、あの男に訊けばいいんだ!」と思い出し、そこから抜け出して、あとを追いかけるように部落の中へと踏み込んでいきました。
親方コブセとO君が親友だということを知っていたからです。

しかし、彼はいったいどこをどう這い回ったのか、私はすぐに彼の姿を見失ってしまいました。
道行く人たちに訊こうにも、おばさんたちが怪訝(けげん)そうな顔でじろじろと見てくるので、かえって訊きづらくなってしまいました。小屋に踏み込んで怒鳴られないように気をつけながら、すぐ四、五間(約8メートル)先に海が迫っている路地の中を、うろちょろと歩き回ったのでした。奥まったところにあるわりには大きな小屋の中から、太鼓の音といっしょに、男の人たちの楽しそうな歌声が聞こえてきます。
その建物の前でどうしようかとモジモジしていると、一人の男の人が七輪を持って外に出てきて、そこにぺたんと座り込みました。
「なんだい?」
「O君のいる場所を探しているんですが……」
「何だって?」男は火を吹きかけた口を突き出して、「Oか? 中にいるよ、中に」
「はあ」と私は行儀よく返事をしたものの、中にいるというO君をどうやって呼び出したらいいのか、さっぱり見当がつきません。
でも、その男の人がすぐに部屋の方に向かって、「O! おいO!」と大きな声で呼んでくれたおかげで、がっちりとした体格のO君が小さな戸口から顔を出し、私を見つけるなり「おーい!」と大きな声を上げ、無理やり中に引っ張り込んでくれました。

そこは洞窟みたいに真っ暗な部屋で、お肉が焼ける匂いといっしょに、もうもうと煙が立ち込めていました。

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