初級翻訳・天馬 第10話

天馬

今では貴様を監獄にぶち込むぞという脅し文句も、もう通用しなくなってしまった。
彼に残されているのは、あちこちをゆすり歩いて一文無しでも酒にありつくための口先だけだ。
それがけしからんというので、大村はこの僕にお寺へ行けと命じているではないか。
もう大村にまで見捨てられたからには、どこへも行き場のない人間なのだ。
彼は、自分を散々使い捨てるだけ使っておいて、今になってしれっとお寺へ行けと命令してくる大村のことが、憎くてたまらなかった。
だが、もう気力もすっかり尽き果てて、どさりと桃の枝を床の上に落とし、彼は目に涙さえ浮かべながら、いっそう自暴自棄になって盃を重ね始めた。

四

十時頃にでもなったのだろうか、玄竜はすっかりへべれけに酔いつぶれていた。
店の中では客が入れかわり立ちかわりしてずっと騒がしかったが、ふと彼の背後からまた新しい客が入ってくる気配がして、歯切れの良い日本語が聞こえてきた。
「まったく、のんびりした朝鮮人にしては、少しおもしろいほどせかせかした連中ですよ」
おや、聞いたことのある声だぞと思って、玄竜はじっと耳をそばだてた。
「まあ日本で言えば、規模のでかいくし焼き屋といったところでしょうかね。
あのくだらない朝鮮人の連中から解放されたすっきりした気分で、ひとつ朝鮮のお酒でも味わってみませんか。
本当に大変でしたね」
新しく入ってきた男二人は、玄竜のすぐ脇に並んで立った。
こう言われている男は、これまで彼らの後をぞろぞろとついて回っては、田中に「先生、先生」とペコペコしていた朝鮮人の国粋主義かぶれの文学崩れたちに違いなかった。
玄竜は警戒するように、きゅっと首をすくめた。
「それでもまあ、おもしろいじゃないですか。
あんな人たちと会って話してみるのも……本当に大陸の雰囲気が出ていてね」
確かにこのもったいぶったしわがれ声は、間違いなく田中だぞと、玄竜ははっと耳を立てた。
「おや、あなたは本気でそんなことを言っているんですか」
案内役の男は、すっかり不服そうな声で叫んだ。
「あなたはまた、妙なところに感心したもんですね」
「いや、それほどでもないんですがね……でも実際に、あの人たちが自分で言っているように、文壇や劇壇なんかで相当活躍しているんでしょうかね」
「そうですよ、あの連中が一流どころなんですから」と、せっかちになって先の男は事実をねじ曲げて言うのだった。
「今度、朝鮮人の連中の作品が日本語に翻訳されたのを読んで、私はまず安心しましたね。
すっかり安心しましたよ。
それぐらいの文章なら、私のような素人でも書けますよ。
朝鮮の地方的な文化だって、やはりここへ来ている我々の手で築き上げるべきものですからね。
ところでさあ、ひとつどうですか」
そう言って男は盃を取り上げた。
やっとその時になって、玄竜は横の方からおずおずと首を突き出し、あわてたようにぼんやりとした目をこすってじっと見据えると、口をぽっかりと開けた。
それはまぎれもなく、東京の田中が、ある官立専門学校の教授である角井に案内されていたのだった。
盃を口に運んでいたその男二人も、玄竜に気がついてびっくり仰天した。
「やあ、田中、田中!」と玄竜は叫びながら両手を大きく広げ、すぐそばにいたひょろりとした体の男に抱きついてしまった。
ほかの客や女たちはみな驚いて目を見張り、この奇妙な光景に肝をつぶした。
日本から来た人をあんなふうに扱って、いったい大丈夫なのだろうかと、不気味にさえ思うのだった。
田中は一目で、それが先ほど大村や角井の三人で噂し合っていた玄竜だと気づいたが、あまりにも意外な場所での再会と、突拍子もないハグにすっかり面食らってしまった。
何よりも息が詰まりそうで苦しかった。
玄竜は彼を抱きしめたまま、まるで狂ったようにその場でぐるぐると回るのである。
「けしからん、けしからん、僕は恨んだぞ、大いに恨んだよ。
黙ってやって来るなんて、そんなやり方があるかよ」
「勘弁してくれ、勘弁してくれ」
田中は、誰か助けてくれと言わんばかりのかすかな声でうめいた。
「さあ、ここで一杯やろう、盃を取ってくれ!」玄竜は素早く飛びのくと、盃をひっつかんだ。
「おう田中君、僕は君が朝鮮に立ち寄ってくれたことを感謝しているぞ、本当に嬉しいぞ!」
田中が大村と一緒ではないことが、なおさら嬉しかったに違いなかった。
彼は再び、ほとんど抱きつくような勢いでこう言った。
「やっぱり君はやって来たな。
しっかりとこの新しい朝鮮を観察してくれよ。
頼んだぞ! さあ、一杯ぐっとやってくれ!」
そして調子に乗りすぎて、はめを外した彼は、
「さあ、角井さん、あんたも大いに飲んで下さい!」
と、なんと角井の背中さえ痛いほど叩いたのだ。
角井は、玄竜とはU誌の会合で一度か二度顔を合わせたきりであり、こんな男に馴れ馴れしくされては自分のプライドに関わると考えていた。
もともと彼は大学の法科を卒業するとすぐに朝鮮の田舎へやって来て、そのまま教授におさまったような男だが、この頃は芸術分野の集まりにまでしゃしゃり出てくるなど、いわば日本人のなかの「玄竜」とも言うべき存在だった。
朝鮮に出稼ぎ根性でやって来た一部の学者連中にありがちな悪癖の如く、彼もまた口では「内鮮同仁(日本と朝鮮は一つ)」と綺麗事を唱えながらも、自分は選ばれた人間なのだという、民族的にも生活面でも人一倍いやらしい優越感を抱いていたのである。だが、たった一つだけ芸術関係の集まりなどに出かけると、自分は朝鮮の文人たちのように立派な芸術の仕事が何一つできていないという引け目を感じてしまい、それがかえって反動となって彼らを憎々しくさえ思っているのだ。
だから、とりわけ朝鮮の文人たちを馬鹿にしようと懸命になり、日本から誰か芸術家がやって来ると、玄竜にも負けないほどの情熱を燃やして学校の授業さえ休みにして出かけていく。そして、ただでさえ少ない給料の中からボーナス分すら惜しみがあらずにあちこちへ連れ回して酒をご馳走し、何かにつけては朝鮮人の悪口を学者のような難しい言葉で並べ立てるのだった。そして口癖のように、「あぁ、あいつらの作品を見て安心したよ」などと呟くのである。
今夜は、とりわけ自分たちが最も軽蔑しているはずの、あの文人の玄竜にばったり出会ってしまったものだから、角井の自尊心はいよいよ天にも昇る勢いで膨れ上がった。
だから彼は、いかにも偉そうに肩を怒らせ、ふんと鼻息を荒くしながら玄竜に背中を向けてしまったのだ。
だが、玄竜もただ者ではない。そんなものは一目も見向きもせず、相変わらず田中をガッチリと捕まえたまま大声でわめき散らしていた。
「おい田中! 僕はな、君を探し回ってすっかり疲れ果て、散々恨めしく思いながらもこうして酒を飲んでいたところなんだよ。
よく会えたなぁ!
まったく六年ぶりじゃないか。そうだ、妹の明子ちゃんは元気でやっているかい?
僕は今でも明子ちゃんのことはしっかり覚えているからな!」
気が弱くて気まずい田中は、玄竜の調子のいいおしゃべりに「うん、うん」と適当に相槌を打ちながら、小さくすぼめた口で薬酒をほんの少しだけ舐めるふりをした。

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