「これには少しの誇張もない、彼女はすこぶる明朗で、無邪気で、塵ほどの汚れもない顔つきで、こんなふうな眼つきをして、しなやかに身をくねらせて言うんだ、自分は貴方ひとりが生涯の良人だと信じていた、死ぬまでそう信ずるであろう、男の子は婚家へ取られたが、女の子二人はどうしても離せない、まわりの反対を押し切って連れ戻った」
「待ってくれ、あれは、嫁にいってからたしか、まだ四年そこそこじゃなかったのか」
「連れ戻った女の子というのは双生児なんだ」
「なんと、それは……」
「その双生児のためにも、貴方は良き父親になってくれるだろう、と彼女は言ったさ、そう信じて少しも疑わない、なぜなら、貴方は自分を誰よりも愛していてくれるから……どんなに隠しても、自分にはそれがよくわかる、そう言いながら、あでやかに身をくねらせ、こんなふうな眼で、私のことを見ました」
主馬は憤然と叫んだ。
「さあ笑って下さい、こんどこそどんな妙な笑いかたでも甘受しますよ、さあどうぞ」
「――なんと、そこまではねえ」
半之助は溜息をついた。
六
「つまりそれで、青山としては、忍耐したわけなんだな」
「どうすることができますか、相手は純情で無邪気で、やましい気持などは爪のさきほどもないんですから、しんぞく、結婚してやろう、というつもりなんだからね」
主馬は両方の手を前へ出して、片方ずつ、ぎゅっと握りながら言った。
「私はまず、初めに喉へこみあげてきたやつを、この手でこう、ぐっと握りつぶし、次にこみあげてきたやつをこっちの手で、そのあとのやつを膝の下へ、満身の力でこう、ぐうっと握りつぶし、押えつけました、そうしておいて、感謝の意を表しました」
「――すると、結婚するわけなのか」
主馬はもの凄いような眼をし、両方の握り拳をつきだし、猛犬の唸るような、けんのんな声で、しかしゆっくりと言った。
「この手の中では、まだそいつが、暴れだそうとして、ぐいぐい身もだえをしている、手の平へ噛みつきもする、私はこいつを一生、この両手にぶら下げていなければならないと思う、そのくらいの気持なのに、安倍には私が結婚するように思えるのかね、それほど私は」
「わかったよ、なにもそう眼を剥くことはないさ」
「眼をどうしたって」
「おれの薬園の仕事だって、それとさして違いはしない、さきにわかっていたら断わるんだが、主馬の忍耐につきあって」
こう言いかけて、半之助はふり返った。
おいそと正木の賑やかな声が聞え、階段をあがって来る足音がした。
主馬は、すべて内密、という目くばせをし、盃を取った。
正木重兵衛と、松室泰助がはいって来た。
「遅刻したですかね」
正木は汗まみれの顔で、せかせかと言った。「いそいで来たんだが、木挽橋のところで喧嘩があってね、侍と犬なんだが」
「またばかなことを」
「いや本当だよ」重兵衛は袴をぬぎながら、「犬が吠えついたんで、侍が怒ったらしい、癇持ちなんだろう、まっ赤になってね、自分は犬が好きで、迷子ののら犬にさえ自分の食物を分けてやっている、できものだらけで毛の剥げちょろけたような犬でさえ、自分はつい頭を撫でてやらずにはいられない、自分にとっては犬は友人以上のものである、にも拘らず、自分に対して吠えるというのは、なにごとであるか、自分のどこが悪いか、どこが怪しいかって、むきになってどなってる、犬のほうは聞いてやしません、ただもうわんわん、むやみにわんわんね」
「御役替えだそうだが」
松室が半之助に云った。
「今日はわれわれが招待するわけか、それとも安倍の招待か」
「どっちでも同じことだろう、早く汗を拭いて坐るがいい」
主馬が答えた。
二人が浴衣になり、膳がはこばれ、ようやく盃がまわりだした。
村田がおそいがどうしたろう、などと云っていると、なをがあがって来て、「青山さまにお客さまです」と云った。
「お武家さまがお三人で、下まで来て頂きたいと仰しゃっています」
「侍が三人、誰だろう」
主馬は首をかしげながら立ちあがった。
主馬が下へおりていって、まもなく、なをが彼の刀を取りに戻った。
「どうしたんだ」
「なんだかわかりませんけれど、いらしった方たちといっしょに、どこかへおでかけのようでございます」
「でかけるって……」
「はい、着替えも此処でしろ、刀も持って来させろって、お三人が青山さまを取巻いて」
「ちょっとみて来る」
重兵衛が立とうとした。
「いや待て、おれがゆこう」
半之助は彼をとめ、刀を右手に持って立ちあがった。
――身の破滅。
そんな言葉が頭にひらめいたのである。
階段をおりてゆくと、店先に主馬が立ち、その左右を三人の侍が、いきごんだ姿勢で、とり囲んでいた。
半之助はちょっと息をのんだ。
主馬の右脇にいる小男は、見たことがある、やはり丸茂で会ったみじん流の剣術の達者だという、たしか次高来太という男にちがいない。
「どうしたんだ、青山」
「なんだかわからない、大目付へすぐ出頭しろというんだ」
「用件はなんだ」
「記録書類がどうとかいうんだが、詳しいことは此処では云えないそうだ」
「おかしいじゃないか」
こう半之助が云いかけると、次高来太という男が前へ出て来た。
「貴方は黙っていたほうがいい、自分に関係のないことには口だしをしないことだ」
「ではそっちはどうだ」
半之助は遮って云った。
「いつか丸茂という家で、この顔を覚えておけと云った、みじん流の次高なにがしとかいうそうだが、大目付とどんな関係があるんだ」
「それが気になるかね」
短くて太い眉が、ぴくっとあがり、色の黒い顔が醜く歪んだ。
「よして呉れ、安倍」主馬が手を振った、「私はいって来るよ、大丈夫だ、いけばわかるだろうし、決して心配はない」
「しかし大目付からの召状はあるのか」
「特に口上で、ということなのです」前にいた一人が云った、「表沙汰にはしない、という意味らしいんですが」
「それにしては、こんな場所からじかに呼出すなんて腑におちない、貴方がたはたしかに大目付の人ですか」
「うるさいな」次高来太が云った、「いいかげんに黙らないと後悔するぞ、おれは酔興で介添に来たんじゃない、来るには来るだけの役目があるんだ、文句があるなら采女ヶ原へでもゆこうじゃないか」
「たのむよ安倍、不必要だ」主馬は二人の間へはいって、半之助を階段のほうへ押しやり、「本当に心配することはないんだ、ゆけば済むことなんだから、どうか黙って」
大きな声で云いながら、三人から離れたとみて、すばやく囁いた。
「村田に知らせて呉れ」
半之助は次高来太の(不愉快な)顔を、眉をひそめながら見ていた。
半之助は迷った。
主馬は、村田に知らせろ、と云ったが、彼にとっては、主馬のことのほうが、さし当って気にかかった。
次高という男は、柳沢系の人間だ、と主馬から聞いた。
現に次高自身の口ぶりでも、大目付には、正式になんの関係もないらしい。
他の二人も、本当に大目付の役人であるかどうか、もしそうであったにしても、柳沢の糸を引いているに相違ないし、とすれば、どこへつれてゆかれるかわからない。
――ゆき先だけでもつき止めておくほうがいい、あとを跟けよう。
いちどはこう思った。
しかし次に、同じ危険が村田にも迫っている、ということを考えた。
コメント