その女主人というのは、ちょっと息をのむような美人で、そのうえ、普段の暮らしぶりや召使たちに対する態度が、まるで大名のお姫さまにも負けないほどの威厳と気高さだそうだよ」
「そんなことまで調べていたとしたら、あのときお酌に出てきた女中の一人は……」
「スパイは一人や二人じゃないさ。まあ、そんなことはどうでもいいとして、その女主人の素性がまったくわからないんだ。江戸の人間じゃないことは間違いないし、町人や農家の者でもない。おそらく、財産のある地方の豪族の娘なんじゃないかって推測されているんだ。なにしろ、ものすごく荒っぽくポンと金をばらまくからね」
「人間にはそれぞれ、いろんな道楽があるもんさ」
「人間によってね」主馬はいらだったように言った。「だけど、このめずらしい紋様が、正雪の事件とも関係があって、さらに今度の件にも絡んでくるなんてことは、ただの趣味や道楽なんかじゃとても説明がつかないだろ」
五
「このあいだの七夕(たなばた)の日に、あの女主人と妹の二人で、柳沢の駒込(こまごめ)の屋敷へ行ったんだ」
主馬は話を続けた。
「その宴会の席で、姉妹でなにか踊りを披露したあと、姉のほうは柳沢吉保の父子と、長いこと秘密の話し合いをしたそうなんだ。そのとき……どういうわけだか理由はわからないけれど、妹のほうは屋敷を抜け出して、そのままどこかへ行方不明になってしまったらしい。ものすごい大騒ぎになったそうだよ」
「そんなすごい所まで、スパイが入り込んでいるとはねえ」
「まあ、聞いてくれよ。つまり、丸茂の女主人は、そのとき柳沢の父子に対して、なにか積極的な計画を持ち込んだとしか思えないふしがあるんだ」
「ちょっと質問いいかい?」半之助はまた団扇(うちわ)を手に取った。「いつか築地の海の近くで聞いたよな。そう、丸茂からの帰りだったっけ、村田が長崎へ行ったというのは表向きの口実で、本当はどこかの方面を探るために調査に行ってきたんだって話さ」
「ああ、話したとも」
「その探査っていうのも、青山が今やっていることと同じようなものなのかい? それともう一つ、彼が植物調査だと言って、よく旅に出かけるのにも、そういう裏の意味があったっていうのか?」
「背筋が凍るような質問だな。そっくりそのままとは言わないまでも、そういう意味が全くないわけではないらしいな。諸大名を監視する隠密(おんみつ)なんて、なにか甲賀者や伊賀者だけに決まっているわけじゃないからね」
「それならよくわかるよ」半之助はニヤリと笑った。「谷町(たにまち)のあたりで知られているようなことがさ、それだけ組織的にやっているんだから、向こうが嗅ぎつけるのは当たり前だ。気づかれていないなんて言うほうがおかしいくらいさ」
「なにかそうやって言葉の尻をとらえなくてもいいじゃないか。やつらに感づかれたのが事実だとしたら、こっちにもちゃんと対策はあるんだからさ」
「ただし、おれを除いての話だけどな」
盃に口をつけて、グイッとあおるように飲み干すと、半之助はきっぱりと言い放った。
「村田の本草学(ほんぞうがく)の裏にそんな深い意味があるっていうなら、おれが彼とつながりのある薬園(やくえん)勤めになることなんて、谷町あたりの連中に疑われるのは目に見えているじゃないか。薬園勤めになったというだけでも怪しいのに、そのうえもし、おれになにか別のことをさせるつもりなら――」
「いや、大丈夫だよ。その点はちゃんと保証するからさ」
主馬は軽く頭を下げた。
「要約して言えばだな、村田にはそういう特別な使命もあるけれど、同時に、各地の植物の分布や、薬になる草木の調査というちゃんとした仕事もあるんだ。それはどんな場所であれ、現実の作業として本当にやらなきゃいけない。だから、彼が採集してきた草木の根や種を、薬園に植え替えて、ちゃんと育てる人間が必要なのさ。なぜなら、ときどき珍しい品種だと言って送り届けてくるものが、ただの雑草だったりする場合もあるからね」
「ははあ……」
「そんなときに、ちゃんと見極めて適当に始末してくれる人間がいないと、都合が悪いわけさ」
「共謀者というか、幇助罪(ほうじょざい)ってところだな」半之助は盃を持ったまま言った。「もう少し気長に耐えられるような、いい話を聞かせてくれよな。そうしないとおれは――」
「話すよ、ちゃんと話すからさ! とにかく一杯、まあどうだい。俺もあと二、三杯はやらないと調子が出ないからね」
彼は自分で徳利を持ち、三杯ほど酒を飲み干した。「これは安倍だけにしか話せないことなんですがね、ことによると忘れたんじゃないかとも思うが、稲垣のしほという娘のことを覚えていないかね」
「稲垣の、しほ……」
こう言って、すぐに思いだして、半之助は思わず微笑んだ。
「ああ覚えているね、主馬の熱烈な恋人だったろう」
「熱烈な恋人はいいけれど、なぜそんな妙な笑いかたをするんです」
「このくらいはしかたがないさ、恋文をみせたり、熱烈なところを聞かせたり、しまいにはあっさり嫁にゆかれて、三銭くらいの値打ちしかないようなこころもちになったまで」
「ああ待った、それを」
主馬は慌てて手を振った。
「そこまで言うことはない、そういう感想はその場かぎり忘れてくれるもんですよ」
「それで、そのしほ女がどうかしたのか」
「どうも三銭の値打ちというやつを覚えていられると、ちょっと話しにくくなるんだが、ま、思いきって話してしまいますがね、こいつは出鼻を挫かれたかな」
主馬はさらに三杯、たて続けに飲んだ。
「まず、ずばりと言うが、そのしほ女が現われたんだ」
「――新町へか」
「さよう、拙者の家へだ」
半之助はじっと相手を見た。
「さっき、つい今しがたと言ったようだな」
「ひと足ちがいで帰った」
「それについてふしぎはないと思うがな、彼女は青山家の遠縁に当るんだろう」
「むろんその点にふしぎはないさ、そういう意味ならこれまでにも、三度ばかり来たことがある、今日のは違うんだ、言ってしまえばね」彼は膝へ手を置いて、「しほ女はおれのところへ、結婚の承諾に来たんだ」
「――ほほう、……」
「彼女は良人に死別して、女の子を二人つれて実家へ戻った、もうなにも二人の仲に障害はないから、貴方の結婚の申し込を承知する、という仰せだ」
そこで主馬は渋い顔をした。
世の中にこれより渋い顔はない、と言いたいぐらいの、第一級の渋い顔であった。
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