初級翻訳・山彦乙女 第42話

山彦乙女

約半刻まえ、彼は甘利沢の下の山道で、この武者たちの深夜の行列を眺め、ひそかにそのあとを跟けて来て、杉の樹立の蔭からこの珍しい儀式を見まもっていたのである。
……腹巻を着けた老人によって神殿の扉が開かれ、神燈がともされ、祝詞があげられた。
半之助の位置からはよく聞きとれなかったが、その日が武田信玄の忌日に当ること、その儀式が信玄の霊をなぐさめ報恩の誓いを新たにするものであることはおよそ理解することができた。
――叔父の書いているとおり、これが武田氏の遠祖と関係のある、武田八幡にちがいない。そして、内陣にいるあの老人がみどう清左衛門という人であろう。
舞っている一人が花世であることは、躯つきやその声の調子でわかった。
――もう一人は誰だろう。
声は花世のそれより韻が深く、身のこなしは激しく、やや荒あらしくさえあった。
花世に姉のあることを半之助はまだ知らないので、それが誰であるかは見当がつかなかった。
とつぜん、鳥が舞いおりた。
杉の梢から鳩くらいの大きさの鳥がさっと舞いおりて来て、翼をひらめかしながら狂ったように篝火のまわりを飛びまわり、キキッとするどく鳴き、次の篝火へ移ったが、炎にどこかを焼かれたのだろう、横さまに地面へ落ち、ぱっと羽毛を散らしながら苦しげに地をはたき、転々と身もだえた。
そのとき、ちょうど舞が終った。
そして、登世が天女の衣装のまま舞台の端へ来て、仮面をぬぎながら下座の者に向って、「あの鳥を、……」と言った。
半之助は眼をみはった。
仮面をぬいだ登世を見て、半之助は花世だと思ったのである。
――そんな筈はない。
漁夫をつとめた娘こそ躯つきも声もまぎれなく花世であった。
その娘はもう舞台をおりているが、彼は自分の眼に誤りがあったとはとうてい思えない。
――ではあれは誰だ。半之助がそう戸惑いをしているあいだ(もちろん極めて短い時間のことだったが)に、登世は、太鼓を打っていた下座の者から、鳥を受取り、まだ激しく羽ばたいている、その鳥を、右手に捧げて、武者たちに呼びかけた。
「みんなよくお聞き」
 初めは低い声であった。
そして、神殿の内陣にいた、みどう清左衛門が立って、なにごとか叫び、きざはしの下の、部将すがたの一人が、舞台のそばへ歩み寄った。
彼は登世の話を制止しようと、したらしい。
登世は続けた。
清左衛門が、さらになにごとか命じ、その部将すがたの武者は、舞台にあがろうとした。
すると、登世はすさまじいほどの、怒りの身振りをし、叫びだした。
篝火をうつして、宝冠がきらきらと光り、武者たちのほうへふり返った顔が、強くひきつって、妖気を放つようにみえた。
「みどうの家は、百三十余年、武田家再興のために、代々、肝胆をくだいて来た、ここに集まった者もみな、そのことのために、すべてを耐え忍んで来た、みんなは、お祖母さまのとき、その機会があったのを、知っておいでだろう、お祖母さまの見込みがちがって、慶安の事は失敗した、こんどは二度めだというばかりでなく、お祖母さまのときとは、比べようもないほど、手を尽し、法を尽してきた、それはみんなも、この権之丞から、聞いたと思う」
 こう云いながら、登世は、舞台のすぐ下にいる、部将すがたの男を、指さした。
「けれども不運なことに、七分どおりまできて、こんどもまた、挫折しようとしている、それは将軍綱吉が、この正月に死に、ついで、事を起こす中心とたのんでいた人が、失脚してしまった、幕府ではその人に関連して、登世の企てをも感づき、これをうち壊そうと、手配をしている、その手先は、もう、この甘利にまで及んでいるようだ、今こう云っているとき、この境内にも、幕府の手先が忍び入っているかもしれない、その暗がり、その杉の樹蔭、社殿のうしろに」
 登世はいちいち手でさし示しながら、そこでさらに声を張った。
その眼は火のように、ぎらぎらと光り、蒼ざめた顔に、さっと血のさすのがみえた。
「手を束ねていても、わたしたちは亡ぼされてしまう、生きるか死ぬかの、時が来たのです、甲府城には、武器も、兵粮も、馬も、兵も集めてある、恵林寺さまの御遺志を守って、城にたてこもって、ひと合戦するか、黙って幕府の手に捕われるか、途はこのうちの、一つよりほかにありません、また、武田家再興の望みも、この機会をのがしては、もう決して来はしません、これが、百三十余年のあいだ、待ちに待った、たった一度の機会です、今後には決して望みのない、たった一度の……」

 こんどこそ、彼は思いだした。
――あの女だ。
木挽町の芝居茶屋で見た、あの異常に美しい、妖しく魅するような、彼女の姿を。
……それは、天女の衣裳と、宝冠を着けたままで、ふしぎなほど鮮やかに、記憶からよみがえってきた。
――だがいったい、……いや、そうだ、姉妹にちがいない、花世にわきをつとめさせ、あのような態度でも내는、おそらく花世の姉であろう。
このあいだにも、登世は、しだいに昂ぶってくる声で、殆んど叫ぶように、言葉を続けていた。
「登世は明日、甲府城へはいります、恵林寺さまの御遺志を忘れない者、父祖代々の誓いを忘れない者、甘利武田の名を惜しむ者は、登世のあとにつづくがよい」
 彼女は手に持った鳥を示し、「これをごらん」と額をあげて云った。
「奉納の舞のなかばに、篝火の中へ落ちて来た、これこそ恵林寺さまの御霊が、挙兵のときをお告げになるあかしです、この……」
 とつぜん、彼女の声がとぎれ、ひきつるようなその顔を、こちらへ、半之助の隠れているほうへと、ふり向けた。
彼女の眼が火のような光りを放ち、唇が、片方へ歪むのを、半之助は見た。
「そこに、曲者がいる」登世は絶叫した、「幕府の手先だ、その大杉の蔭に、射て取れ、逃がすな」
 そのとき、武者たちの居並んでいる、うしろから、弓を持った男が、非常にすばやく立ちあがり、神速に、矢をつがえて射た。
登世の叫びと、その男の矢を射かける動作は、殆んど間髪を容れぬ、といいたいほど、すばやく、かつ、呼吸が合っていた。
半之助は身が竦んだ。
あまりに不意で、どうすることもできず、息が詰るようであった。
しかし、矢は、彼のいる処よりも、やや右にそれた。
二の矢、三の矢。
するどく空を切る、矢羽根の音は、みな同じ方向へ飛んだ。
――おれではない。
こう気づいて、彼が、反射的に立ちあがったとき、矢の飛んでゆくあたりで、藪を走る人のけはいがし、ぞっとするような、悲鳴が起こった。
……半之助はうしろの闇のなかへ、夢中で走りこんだ。
武者たちが総立ちになって、なにか喚きながら、こっちへ駆けつけて来た。境内の森はそんなに広くなくて、外側はしげみや雑木林になっていて、そのまま山の斜面へと続いています。
半之助は林の足もとの草むらの中に飛び込んで、体をつまりました。
息がのどにつかまって、心臓がめちゃくちゃに、ものすごい勢いでドクドクと打ちました。
すぐ近くのところで、耳をつんざくような叫び声と、木の枝が折れる音がして、
「頼むから待ってくれ、逃げたりしないから」
という声が聞こえました。
「向かってなんていかないよ、この通りだから」
半之助は体を起こして、山の斜面へ向かって、音がしないように忍び足で登り始めました。

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