キスしてくださる? ハリーさん」
「承知しました」と、彼は自分に優男(やさおとこ)としての心得があることを思い出して言いました。「ですがこれは裏口のためじゃなくて、あなたが親切で美しいからですよ」
そうして、彼は二三度、真心がこもったキスをしてあげました。女も同じようにそれを返してくれました。そこでプルーデンスは彼を裏門の方へ連れて行き、その鍵に手をかけて、「またいらしてくださる?」とたずねました。
「参りますとも」と、ハリーは言いました。「命を助けてもらったんですからね」
「それでは」と、彼女は扉を開けながら付け加えました。「できるだけ一生懸命駆けていらっしゃい。私、あの人を家の中へ入れますから」
ハリーには、この助言もほとんど必要ありませんでした。恐怖でいっぱいで、何をおいても逃げ延びるつもりだったからです。二三歩駆け出しさえすれば、それでこの苦しみから逃れて、ヴァンデラー夫人のところへ、立派にそして無事に帰れると思っていました。
しかし、その二三歩もまだ駆け出さないうちに、彼はさまざまな悪口を並べ立て、自分の名前を呼びながら、大きな声で怒鳴り立てる男がいることに気がつきました。振り返ってみると、それはチャーリー・ペンドラゴンで、両手を振ってこちらへ戻ってこいと合図をしているのでした。
この新しい出来事は非常に突然で、驚くべきものでしたが、それだけではありません。ハリーは既に神経がひどく昂(たかぶ)っていたので、ただもう一層足を早めて、どんどん逃げ延びること以外は考えられませんでした。彼は確かにケンシントン公園で見た光景を思い出すべきでした。将軍が自分の敵なら、チャーリー・ペンドラゴンは自分の味方に違いない、という結論も確かに導き出せるはずでした。
しかし、彼の心はすっかり逆上して狼狽(ろうばい)していたので、そんな考えはまるで頭に浮かびませんでした。そしてただ一層足を早めて、その横町を駆け続けました。
チャーリーは、その声の響きから見ても、また秘書役に投げつける罵詈雑言(ばりぞうごん)から考えても、明らかに気が狂うほど腹を立てているに違いありませんでした。で、彼もまたできるだけの早さで追いかけました。だが、どんなに早く走っても、彼には体のつくりに不利な点がありました。それでその叫び声も、割栗石を敷いた道に響くびっこの足音も、だんだんハリーの耳から遠のくばかりでした。
ハリーの胸には、再び希望が湧いてきました。道は険しくて狭かったのですが、両側には庭の塀が立っていて、樹の葉がそれに覆いかぶさり、何とも言えないほど物寂しげでした。そして前の方を見ると、目の届く限り、人っ子一人歩いておらず、また開いている戸口もありませんでした。天はついに彼をいじめることに疲れ、今や彼に逃げ切るための広い野原を与えたのでした。
ところが、やれやれ! 彼が栗の花に覆われたある庭の戸口のそばまで来たとき、それが急に引き開けられたので、彼がその内側へ目をやると、庭の小道に、手に皿を抱えた肉屋の小僧の姿が見えました。
彼はそれをちらりと見ただけで、もうそこを駆け抜けて数歩先へ行っていました。
しかし小僧のほうにはよく彼を見る余裕があって、一人の紳士が異常な速さで駆けていくのを見て、たしかにびっくりしたようでした。
そこで通りへ出てきて、ハリーの後から皮肉な囃し声でからかったのでした。
この小僧が現れたことで、チャーリー・ペンドラゴンの頭に一つの新しい考えが浮かびました。
彼はもう情けないことにすっかり息が切れていましたが、そこでまた声を張り上げて、「泥棒、待て!」と叫びました。
すると、肉屋の小僧はすぐに同じことを叫び出し、一緒になってハリーを追いかけました。
これは追われている秘書役にとって、苦しいひとときでした。
怖いと思っているために足がなおさら速くなり、一歩進むごとに追っ手から遠ざかることができたのは事実でした。
しかし彼は、もうほとんど策が尽きていることによく気がついていました。
もし向こうから誰かやってくるのに出くわしたら、この狭い横町では、彼の立場は全く絶望に陥ることになります。
「こりゃどうしても隠れ場所を見つけなきゃ駄目だ」と、彼は考えました。
「それもこの二、三秒のうちに。それが駄目ならもうおしまいだ」
こういう考えが彼の胸の内に浮かぶか浮かばないうちに、道が急に曲がっているところへ来ました。
そして敵から見られなくなったことに気がつきました。
どんな力の弱い人間でも、ときによると非常に強くなって、素晴らしい決断力を表してくる場合があるものです。
また極めて用心深い人でも、自分のいつもの慎みを忘れて、恐ろしく向こう見ずな決心をすることもあるものです。
ハリー・ハートリーにとっては、そのときの状況がまさにそれでした。
彼を最もよく知っている人でも、そのときの大胆不敵な行動を見たら、きっと非常に驚いたに違いありません。
彼は突然立ち止まって、帽子箱を塀越しに放り込み、それから信じられないほどの身軽さで塀をよじ登り、両手で笠石を掴み、そして箱を追って庭の中へ真っ逆さまに転がり込みました。
しばらくすると正気に返りましたが、見ると自分は小さな薔薇の植え込みの縁に座っていました。
手にも膝にも切り傷ができて血が流れていました。
というのも、その塀には古い瓶の破片が無闇に埋め込まれていて、こんなふうによじ登るのを防いでいたからでした。
彼は体じゅう骨が外れたような感じがして、頭が気持ち悪くふらふらするような気がしました。
庭はきれいに手入れが行き届いていて、ひどく気持ちのよい匂いの花が咲き乱れ、その向こうには家の裏側が見えていました。
それはかなり大きな家で、たしかに人が住んでいました。
だが庭とは不思議な対照をなしていて、なんだかガタガタしていて、手入れも悪く、貧相な様子の家でした。
庭の塀の続きは、そちら側の外にはどこにも切れ目がないようでした。
彼はその場の様子をこんなふうにただ機械的に眺めていました。
だが彼の心はまだそれらの物をまとめ上げたり、自分の見たものから合理的な考えを組み立てたりすることはできませんでした。
そして砂利道を歩いてくる足音を聞いても、目をその方へ向けるには向けましたが、それは防ごうとか逃げようとか考えたためではありませんでした。
そこへ来た人は、背の高い、粗野な、ひどく品の悪い男で、庭仕事の着物をつけ、左の手に如雨露(じょうろ)を持っていました。
ハリーほど取り乱していない人だったら、この男の大きな体格と、その怒ったような、不機嫌な目つきを見て、随分びっくりするはずですが、ハリーは塀から落ちて激動を受けていたので、たいして恐ろしいとも感じませんでした。
そして庭師から目をそらすことはできませんでしたが、ただ絶対的に受身の状態で待っていました。
そして相手が近づいてきて、肩先に手をかけて乱暴に引き起こしても、少しも抵抗しないでいました。
しばらくの間、二人は睨み合っていました。
ハリーは魅入られたような顔をして、男は怒りと残忍な薄ら笑いを浮かべて。
「お前は誰だ?」と、男はとうとう言い出しました。
コメント