逃げろ、逃げろ!」
カナリアがそう言うと、書記はついその気になって、スウッと窓の外へと飛び出しました。その瞬間、隣の部屋の、半分開いた戸がギイと音を立てると、緑色をした火のような目の飼い猫が忍び込んできました。
猫はいきなりひばりを追いかけようとしました。カナリアはかごの中を飛び回り、オウムも羽をバサバサと動かして「まあ、人になることですよ」と叫びました。
書記はもう死ぬほど驚いて、窓から屋根へと、そして往来へと逃げ出しました。
とうとうくたびれ果てて、少し休まなければならなくなりました。すると、向かい側の家が住み心地のよさそうな様子をしていました。窓が一つ開いていたので、そこからスウイと飛び込むと、そこは自分の部屋の書斎でした。
ひばりは机の上へと飛び降りました。
「まあ、人になることですよ」
ひばりは、ついオウムの口まねをして言いました。その瞬間に、書記の姿に戻りました。ただ、机の上にのっかっていたのです。
「やれやれ、驚いた」と、書記は言いました。
「どうしてこんな所にのっかっているのだろう。しかもひどく寝込んでしまって、なにしろ落ち着かない夢だった。しまいまでくだらないことばかりで、冗談にもほどがある」
六 うわおいぐつのさずけてくれたいちばんいい事
明くる日の早朝、書記君がまだ寝床に入っていると、戸をコツコツと叩く音が聞こえました。
それは同じ階にお隣同士で住んでいる若い神学生で、部屋に入ってきてこう言いました。
「きみのうわおいぐつを貸してくれたまえ」と、学生は言いました。「庭はひどく湿っているけれど、日はカンカン照っている。下へ降りていって、一服やりたいと思うのだよ」
学生はうわおいぐつを履いて、まもなく庭へ降りました。庭にはすももの木と、なしの木がありました。これだけの小さな庭でも、都の中ではなかなかの値打ちものです。
学生は庭の小道をあちこち歩き回りました。まだやっと六時で、往来には郵便馬車のラッパの音が聞こえてきました。
「ああ、旅行! 旅行!」と、学生は叫びました。
「これこそ、この世でいちばん大きな幸福だ。これこそぼくの希望の一番高い目標だ。旅に出てこそ、ぼくのこの不安な気持ちが落ち着く。だが、ずっと遠くでなければなるまい。美しいスイスが見たい。イタリアへ行きたい――」
いや、うわおいぐつが早速しるしを見せてくれたことはありがたいことでした。さもないと、自分にとっても、他人のわたしたちにとっても、始末の悪い遠方まで飛んでいってしまうところでした。
さて、学生は旅行の途中です。スイスの真ん中で、急行馬車に、ほかの八人の相客と一緒に詰め込まれていました。
頭痛がして、首がだるくて、足は血が下がって膨れ上がり、それを窮屈な長ぐつで締め付けられていました。眠っているとも覚めているともつかず、うとうとと揺られていました。右のポケットには信用手形を入れ、左のポケットには旅券を入れていました。ルイドール金貨が胸の小さな革紙入れに縫い付けられていました。
うとうとすると、この大事な品物のうちどれかをなくす夢を見ました。それで、熱が高いときのようにひょいと飛び上がりました。そうしてすぐに手を動かして、右から左へ三角を描くように触り、それから胸を叩いて、まだなくさずに持っているかどうか確かめました。
こうもり傘と帽子とステッキは、頭の上の網の中でゆらゆらと揺れていて、せっかくの素晴らしい外の景色を見る邪魔をしていました。でも、その下から覗いてみるだけでして、その代わりに学生は心のなかで、詩人と呼んでもいいでしょう、わたしたちの知っているある人がスイスで作って、そのまままだ印刷されずにいる詩をうたっていました。
さなり、ここに心ゆくかぎりの美はひらかれ
モンブランの山――天そそる姿をあらわす。
嚢中(のうちゅう)のかくもすみやかに空しからずば、はや
あわれ、いつまでもこの景にむかいいたらまし。
見える限りの自然は、大きく、厳かで、薄暗くも見えました。もみの木の林が、高い山の上で草やぶのように見えました。山の頂は雲霧に隠れて見えませんでした。やがて雪が降り始めて、風が冷たく吹いてきました。
「おお、寒い」と、学生はため息をつきました。
「これがアルプスの向こう側であったらいいな。あちらはいつも夏景色で、その上、この信用手形でお金が取れるのだろうが。金の心配で、せっかくのスイスも十分に楽しめない。どうか早く向こうへ行きたいなあ」
こう言うと、もう学生は山の向こう側のイタリアの真ん中、フィレンツェとローマの間に来ていました。トラジメーネ湖は、夕映えの中で暗い藍色の山々に囲まれ、まるで金色の炎のように輝いていました。
そこは昔、ハンニバルがフラミウスを打ち破った場所で、今ではぶどうのつるが、緑色の指を優しく絡み合わせていました。
可愛らしい半裸の子どもたちが、道端の香り高い月桂樹の林の中で、真っ黒な豚の群れを飼っていました。
もしこの景色をそのまま絵に描いて見せることができたなら、誰だって「ああ、素晴らしいイタリア!」と叫ばずにはいられないでしょう。
けれども、今のところ神学生も、同じウェッツラ(四輪馬車)に乗り合わせた旅の道連れも、それを口に出す者はいませんでした。
毒のあるハエやアブが、何千と群れをなして馬車の中へと飛び込んできたからです。
みんな気違いのようにミルテの枝を振り回しましたが、ハエは平気で刺してきました。
馬車の客で、誰一人として刺されて顔が腫れ上がっていない者はいませんでした。
かわいそうな馬は、まるで腐った肉でもあるかのように、ハエのたかるままになっていました。
たまに御者が降りて、いっぱいにたかっている虫を払い除けると、そのときだけいくらかほっとしました。
いま、日は沈みかけました。
短い間ですが、氷のような冷たさが万物にしみ通り、それはどうにも心地よいものではありません。
でも、まわりの山や雲が、昔の絵画にあるような美しい緑色の調子をたたえて、いかにも明るく澄み通って――まあ、何でも自分で見てみることです。書いたものを読むだけでは分かりません。
まったく例えようのない景色です。
この旅行者たちも、誰もがやはりそう思いました。
でも、胃の腑は空っぽで、体も疲れきっていました。
ただもう今夜の宿、それだけが誰しも心の願いでした。
さて、どうなることやら。
美しい自然よりも、そのことへ誰の心も向かっていました。
道はオリーブの林の中を通っていきました。
学生は、故郷にいて節だらけの柳の木の間を抜けていくときのような気持ちでした。
やがてそこに、寂しい宿屋を見つけました。
足なえの乞食たちが一塊になって、そこの入り口に陣取っていました。
中でも一番すばしっこい奴でさえ、飢饉の跡取り息子が大人になったような顔をしています。
そのほかは、盲目か足なえのどちらかでしたから、両手ではい回るか、指の腐れ落ちた手を合わせていました。
これはまったく、惨めなボロにくるまって出てきた有様でした。
「旦那様、あわれなものでございます」と、乞食はため息混じりに片輪の手を差し出しました。
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