初級翻訳・幻影の盾 第6話

夏目 漱石

「鳴かぬ烏(からす)が闇に飲み込まれるまではな……」と言って、六尺一寸の大きな体を伸ばし、自分の胸板を叩いた。
「この霧深い国を去るつもりはないのか。あの金色の髪の持ち主と一緒なら、満更(まんざら)嫌な話でもないだろう?」シワルドは丸テーブルの上を指さした。
テーブルの上には、クララの髪が置かれたままになっている。内ポケットにしまうのを、つい忘れていたのだ。ウィリアムは身を乗り出したまま、言葉に詰まる。
「鴉の中に交じる白い鳩を、助けようとは思わないのか?」シワルドは、再び草むらの中に蛇を放つような探りを入れる。
「今から七日過ぎた後なら……」ウィリアムは不意を突かれ、仕方なく首をもたげた。
「鴉を殺して、鳩だけを生かそうという注文か……それは少し無理があるな。だが、できないこともないだろう。南から来て南へ帰る船がある。待てよ」シワルドは指を折って数えた。
「そうだな、六日目の晩には間に合うはずだ。城の東の船着き場へ船を回して、あの金色の髪の主を乗せよう。普段は帆柱の先に白い小旗を揚げるが、女が乗ったら赤に変えさせよう。戦は七日目の昼過ぎからだ。城を囲めば港が見える。柱の上に赤が見えたら、天下太平……」
「もし白が見えたら……」ウィリアムは幻影の盾を睨みつけた。
夜叉の髪の毛は動こうともせず、音もしない。クララかと思う顔が一瞬見えたかと思うと、すぐに元の夜叉の姿に戻ってしまう。
「まあ、いいさ。どうにかなる、心配するな。それよりも南の国の面白い話でもしよう」シワルドは渋色の髭を無造作にかきむしり、若き友をなだめるように話題を変えた。
「海を一つ越えると日差しが多くて暖かいんだ。それに酒は甘く、地面には金が落ちている。土一升に対して金が一升……嘘じゃない、本当の話だ。手を振って、聞きたくないと言うのか? もうこうして落ち着いて話せる機会もあまりないだろう。シワルドの最後の名残だと思って聞いてくれ。そう滅入ることもないさ」宵の口に飲んだ酒の気がまだ醒めないのか、ゲップと共に酒臭い息をウィリアムの顔に吹きかける。
「いや、これは失礼……何を話すつもりだったか。おお、そうだ。その酒が湧き、金が土に混ざるという海の向こうの話だ」シワルドはウィリアムを覗き込んだ。
「あんた、女にモテたことがあるのか?」
「ワハハハ! 女との縁も数多(あまた)あるが、そういう話じゃない。ボーシイルの会を見たという話さ」
「ボーシイルの会?」
「知らぬのか。薄暗い島国に住んでいると、知らないのも無理はないな。プロヴァンスの伯爵とトゥールーズの伯爵が和睦したあの会合は、あちらでは誰もが知っている有名な話だぞ」
「ふむ、それがどうした?」ウィリアムは気の乗らない顔だ。
「馬は銀の蹄鉄を履き、犬は真珠の首輪をつける……」
「金の林檎を食べ、月の露を風呂に入れる……」と、常識外れな話に、ウィリアムは嘲笑うように言葉を遮った。
「まあ、水を差さずに聞いてくれ。嘘だとしても面白いだろう」相手は切れた糸を繋ぎ直す。
「試合の催しがあると、シミニアンの太守が二十四頭の白牛を駆って、馬場の内側をきれいに地ならしする。ならした後に三万枚の黄金を蒔くんだ。するとアグーの太守が『わしは勝者に与える褒美を受け持とう』と、十万枚の黄金を上乗せする。マルテロは『わしはご馳走係だ』と言って、蝋燭の火で調理した珍味を振る舞い、銀の皿や小鉢を引出物に添えるんだ」
「もう十分だ」ウィリアムは笑いながら言った。
「もう一つあるぞ。仕上げにレイモンが『今まで誰も見たことがない遊びを見せる』と言って、まず試合の柵の中に三十本の杭を打つ。そこに三十頭の名馬を繋ぐんだ。裸馬じゃないぞ、鞍も置き、鐙(あぶみ)もつけ、手綱の装飾まで贅を尽くしたものだ。いいか、そしてその真ん中に鎧や刀を、これも三十人分、兜はもちろん小手や脛当(すねあて)まで添えて並べ立てた。金額にしたらマルテロのご馳走よりも嵩(かさ)が張るだろう。それから周りに薪を山のように積んで、火をかけて、馬も武具も全部焼き尽くしてしまった。どうだ、あちらの連中は豪快な遊びをするだろう?」そう言って、シワルドはカラカラと心地よげに笑った。
「そんな国へ行けと言われても、あんたも余程の意地っ張りだなあ」と、再びウィリアムの心の底へ探りの石を投げ込む。
「そんな国に、黒い眼と黒い髪を持つ男は無用だ」ウィリアムは自嘲するように言った。
「やはり、その金色の髪の主がいる場所が恋しいと見えるな」
「言うまでもない」ウィリアムはキッとなって、幻影の盾を見つめた。
中庭の隅で鉄を打つ音、鋼を鍛える響き、槌の音、ヤスリの音が聞こえ出す。夜はいつの間にかほのぼのと明けていく。七日後に迫った戦いは、一日の命を縮め、ついに六日後となった。ウィリアムはシワルドの勧めに従い、クララへの手紙をしたためるのだった。心がせいて、わきの下に汗がにじむほど焦っているせいで、伝えたいことの万分の一も書けやしない。
「あなたの髪は、いまも私の懐にあります。どうかこの使いの者と一緒に逃げてください。疑えば魔の手が忍び寄ります」
ただそれだけの言葉を書き記して、筆を置いた。
この手紙を受け取り、クララに届ける者が誰なのか、どこの誰なのかは分からない。ただ、その頃に流行っている楽人の姿に化けて「夜鴉(よがらす)」の城に忍び込み、戦が始まる前の晩にクララを連れ出して舟に乗せる手はずだ。万が一、手順が狂ってしまったら、その隙を見て城に火を放ってでも、この思いを遂げるつもりだ。
これだけの手はずはシワルドから聞いた。その先のことなど……「幻影の盾」だけが知っていることだ。

逢えばうれしく、逢わねば憂う。その「憂い」と「嬉しさ」の源から、真珠にも負けないほど美しい涙が湧き出てくる。この清らかな人に、なぜ涙が流れるのかと問えば、本人は「分からない」と言う。分からないとは、つまり「自然とこぼれ落ちる」という意味なのだろうか。

聖母マリアの像の前にひざまずき、祈りを捧げていたウィリアムが立ち上がったとき、その長いまつ毛がいつもより重たげに見えた。なぜ重く感じるのか、彼自身にも分からなかった。真実は真実として自覚していても、その先のことは誰にも分からないのだ。
その夜の夢の中で、彼は五色の雲に乗るマリアを見た。マリアに見えたその姿はクララをまつる姿であり、クララとは、この地上に生きるマリアそのものだった。祈られる神と、祈られる人は違っても、祈る人の胸の中では、神も人も同じ願いの影法師に過ぎない。聖母をまつるのは恋する人のためであり、人を恋うのは聖母にひざまずくためだ。マリアと呼ぼうが、クララと呼ぼうが、ウィリアムの心の中に二つのものは宿らない。もし宿る余地があるのなら、この恋は偽物の恋だ。

夢の続きのように、中庭の隅で鉄を打つ音、鋼を鍛える響き、槌の音、ヤスリをかける音が聞こえ、いつものように夜が明けていく。戦の時は刻一刻と迫っていた。五日目から四日目へ移るのは、伏せた手を裏返すほどの瞬間に感じられ、四日目から三日目へ進むのは、裏返した手を元に戻す間のように思えた。

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