初級翻訳・愛護若 第5話

愛護若

江の島の児ヶ淵伝説では相手の僧も後を追うことになっていますが、大体は能動的な側の男は発心(ほっしん)するか、しっかりと出家を遂げるという「発心物語」になっています。
細工夫婦の死も、後を追った死とは考えられません。
むしろ、前に言ったような多人数が殉死し、殉死者が転生するという物語になっています。
そのほか、宝比べや申し子といった形式は、愛護若の民話に限ったことではないので、ここでは触れないでおきましょう。
若が挿した松の枝が「唐崎の一つ松」に化生したというのは、「女筆始」で「ついて来た松が枝の杖をさした」という話の方が古い形を詳しく伝えており、琴御館家の先祖が日吉の神の残された杖を立てたのが化生したという(『耀天記』)伝説と直接関係があり、さらに北野の一夜松原や息松原などの系統も加わっています。

四

この説経節の筋が中心となっている浄瑠璃、脚本、小説の類を調べてみることにします。私が読んだことのあるもの、あるいは名前だけを聞き知っているものは、以下の通りです。

『愛護若』(角太夫の正本)、『辛崎一本松』(加賀門人・富松薩摩の正本)、『愛護若都富士』(元禄6年正月・竹本座興行、辰松幸助作)、『愛護若塒箱(とやばこ)』(紀海音)、『あいごのわか』(宝永5年正月・天満八太夫の正本)、『花館愛護桜』(また『花館泰平愛護』ともいう。正徳3年4月・山村座)、『愛護若名歌勝鬨(なごのかちどき)』(宝暦3年5月・竹本座、半二・松洛ら作)、『信田小太郎世継鑑(よつぎかがみ)』(宝暦3年7月・中村座助六狂言。評判記によると、愛護の筋が入り混じっていたことが伺える)、『愛護曾我』(宝暦5年正月、堀越二三治の作か)、『愛護若女筆始』(享保20年正月・八文字舎本)、『愛護若一代記』(『女筆始』と同じ本。再刻版。ただし、年月などの記載は元のまま)、『あいごの若』(享保20年正月・金平本)、『初冠愛子若』(同7月〜8月・大阪沢村長十郎座)、『曾我愛護若松』(明和6年3月、増山金八の作か)、『神霊矢口渡』(文化5年・小枝繁作、読本)。

このほか、天明以前の「助六狂言」には、たいてい『愛護若』の要素が含まれていたと思われます。また、これとは別に『○○○愛護稚松(ちわかまつ)』という、助六とは別の種類の芝居があったと記憶しています。印をつけた5種類以外は、まだ現物を見ることができていません。

とはいえ、角太夫の正本と、薩摩太夫の『辛崎一本松』は、後に出た説経節の『あいごのわか』と大差ない内容でしょうし、時代を考えても、説経節の方が後から出たとは言えません。たとえ八太夫の正本が成立としては遅かったとしても、愛護浄瑠璃の先駆けとなったと想像するだけの理由があります。天満八太夫が江戸へ来て繁盛する以前の上方説経節としての『愛護若』が、正本が成立するよりも先に、すでに角太夫や薩摩太夫の演目に取り入れられていたのだろうと考えるのは、決して無理なことではないはずです。

その正本に、観客は最初から知っているだろうという前提で書かれたような節回しが見られるのは、八太夫の浄瑠璃が生まれる以前から広まっていた「愛護の民話」と、八太夫の浄瑠璃との間に距離があったことを感じさせます。しかし、他の浄瑠璃と比べれば、より原始的な雰囲気を残していたことでしょう。ましてや『都富士』や『塒箱』などは、現在残っている説経節の本文よりも、いくぶんか作劇の工夫が進んでいたものと考えられます。

江戸の助六狂言は、記録を信じれば、一番の始まりから『愛護若』を取り入れていました。江戸の助六狂言のルーツが、大阪の「揚巻・助六心中」にあることは明らかですが、最初の『愛護桜』から、今のもののように荒事(あらごと)本位の喧嘩師・助六だったと考えたり、和事(わごと)専門ではなかったと考えたりするのは誤りでしょう。享保以前に作られたと鑑定される、上野図書館所蔵の『揚巻助六狂言の記(仮題)』という黒本風の書物に見える筋は、上方の『揚巻・助六心中』に近く、助六狂言の本来の筋を伝えているようです。

この江戸助六狂言の根本となる筋ははっきりせず、登場人物についても異論はありますが、揚巻、助六、白酒売り新兵衛が登場したことだけは確かなようです。「金の揮配(きはい)」に残された鳥居派の絵を見ると、田畑介(たばたのすけ)のちに介六、白酒売り新兵衛のちに荒木左衛門とあり、図面は屋根の場面で、軒先に「江戸町いづみや」「三丁目つたや」といった高張提灯が見えることから考えても、場所は吉原です。介六と新兵衛は、白酒を担ぐ天秤棒(てんびんぼう)に見えるものに仕込んだ刀の両端を引っ張り合っています。これは二人とも味方同士であり、別の場所にいる敵役を殺そうとして先を争っているのか、あるいは一人が怒り、一人がそれを制している場面とも見られます。

二人とも敵役ではないことは、介六の役者を市川團十郎が、白酒売りを生島新五郎が演じたことからも分かります。二人の立役(主役級の役)が心を合わせて敵を討とうとしているものと見れば、直ちに後の『由縁江戸桜(ゆかりのえどざくら)』で五郎・十郎に変わっていく道筋も納得がいきます。もっとも、2回目以降の助六である『式例和曾我』以降の作品は、助六の中に「曾我」や「愛護」が入り込んでいるため、多くの場合、3つの物語の筋が一つに絡み合っていたようです。思うに、2回目・3回目の頃の作品は、曾我物語を含んできたものが、だんだんと元の愛護の物語をも呼び戻して、混ざり合うことになったのでしょう。

『愛護桜』に、なぜ縁もゆかりもない愛護が割り込んできたのでしょうか。私は、正徳3年が江戸の山王日枝神社の記念すべき年であった、といった理由があるのではないかと想像します。この狂言が、伝承通りに「仇討ち物」だとすれば、敵は誰を殺したのでしょうか。二条蔵人でしょうか。それとも愛護でしょうか。

後の『愛護』の評判記の絵を見ると、工藤とやはたの介(八幡三郎と田畑介を混ぜたものか。工藤足軽八幡之介、実は鬼王とある)が、愛護の君を桜の木に吊り上げて拷問している場面があります。子役の持ち役として、愛護は比較的軽く扱われていたのかもしれません。あるいは、愛護を殺した犯人を、『梅若丸』殺しの忍の惣太のような「細工小次郎」として描いておき、後にそれが「髭の意休(ひげのいきゅう)」にすり替わったという趣向であり、助六が「臭い、臭い」と喝破する元となったのかもしれません。後の五郎の助六が常に問題にしている「友切丸(ともきりまる)」は、『愛護桜』では、単なる刃(やいば)の大刀だったのでしょうか。大阪出身の古手屋八郎兵衛や紙屋治兵衛を『銀猫おつま』や『佃島心中』といった物語に仕立て上げ、そこから逆に、古八(古手屋八郎兵衛)や紙治(紙屋治兵衛)までもが江戸にも別に存在していたかのように説く、そんな「通人」気取りの考証家が多かった江戸という土地柄です。ですから、助六や意休といった名を持つ人物の実在説なんてものは、すべて眉唾物(まゆつばもの)に過ぎません。

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