初級翻訳・日曜日から日曜日まで 第3話

南部 修太郎

おまけに、うっかり生ぬるい空気でムッとするタバコの葉の乾燥室に入った瞬間、軽いぜんそくの発作が起きてしまい、あとになって、今日にかぎって用心深く持ってきていたアストール吸入器が役に立ってしまうような羽目になってしまいました。
三十分ほどで工場を出ると、馬場先生と私は厩橋(うまやばし)あたりの隅田川の岸辺に出、川沿いに両国の方へと歩いていきました。
先生との散歩は、まるで明治文学史そのものと一緒に歩いているような気分になります。
先生はおしゃべりが好きだし、記憶はとても生き生きとしています。御蔵橋(おくらばし)の近くに来ると、斎藤緑雨(さいとうりょくう)の死をしみじみと思い出され、明治三十七年の十一月の肌寒い夕方、幸田露伴(こうだろはん)、与謝野寛(よさのひろし)、戸川秋骨(とがわしゅうこつ)といった人たちと一緒に、みすぼらしい座棺(ざかん)の後ろに従いながら、三河島の火葬場へ向かうためにわずか七、八人の人数でその御蔵橋を渡っていったというお話などを聞かせてくださいました。そのエピソードは、ことさらに自分の胸を強く打つものがありました。
「みじめなものだったんですね、あの時代の人たちは……」と、私は思わず先生を振り返り、少し声を張り上げるようにして言いました。
報われることの少なかった明治時代の文人の中でも、緑雨はおそらくその不遇さにおいて随一の人だったことでしょう。
それにしても、自分の子供時代の長崎の思い出にかろうじて残っているような、あんなにも粗末な感じの棺に納められ、その人柄をよく知る者たちの十人の指にも満たない人たちに見送られてお墓へ向かうだけだなんて、なんとわびしいことでしょうか! その頃の隅田川の岸辺と言えば、自分の記憶にもぼんやりと浮かびますが、低い家が立ち並んだ薄暗い泥の道、晩秋の肌寒い川風の中をトボトボと歩いていったであろう、あまりにも寂しいお葬式の行列! それが、明治文学史にあれほど強烈な足跡を残した文人の、人生の最後のお別れだったのです。
両国橋のたもとで、先生と私は一銭蒸気(いっせんじょうき:隅田川を行き来した小さな渡し船)に乗りました。
隅田川に来ると、私はいつも必ずこの船に乗ります。
昔、芥川龍之介とも一緒に乗ったことがありますが、あの何とも間の抜けたのんびりした雰囲気が好きなのです。
先生が台湾旅行の話をされると、今度は私が中国を旅したときの話をします。
例の呼び売りの話から、腕なし芸人の妻吉(つめきち)の話へと広がります。
妻吉が一銭蒸気の中で自分の絵葉書を売りつけられた話や、船から陸に上がるときに船員が手をとって助けようとして、はめていた義手をうっかり掴んでしまい、それがスポリと抜けてしまったのを見て驚き、腰を抜かしてしまったという話などです。
そうこうしているうちに、蒸気船はいつの間にか吾妻橋(あづまばし)に着いていました。
穏やかなお出かけ日和とあって、浅草は大賑わいでした。
仲見世をぶらぶらと歩いているうちに少し息苦しくなってきたので、甘味処の「梅原」に入って一休みすることにしました。
そして、そんな苦しそうな姿をお見せする失礼を心の中で詫びながら、しばらくアストール吸入器を使いました。
おかげで幾分ラクになりました。
小倉汁粉をすすりながら、三十分ほどをそこで過ごしました。
それから浅草寺の観音様にお参りし、奥山から瓢箪池(ひょうたんいけ)の橋を渡って映画館などが並ぶ繁華街へと抜けました。
相変わらずいろいろなお話を楽しく聞きながら、やがて田原町(たわらまち)へと出ました。
「銀座へ行ってみましょうか?」と、私はさらに先生を誘って自動車を呼び止めました。
あぁ、なんと心楽しい半日でしょう!
慶應義塾の文科生だった頃、級友の井汲清治(いくみせいじ)、福原信辰(ふくはらのぶとき)、そして今は亡き宇野四郎(うのしろう)たちと一緒に、馬場先生と連れ立って銀座へ歩いて繰り出したことが何度もあったのですが、あの頃から数えてほぼ二十年ぶりの今日、思いがけないことから、こうして年老いた先生と素晴らしい半日を過ごすことができたのです。
自分の体調がもっと万全だったらよかったのにと、それだけが少し残念でしたが、その後、銀座の資生堂パーラーで簡単な夕食を食べながらお話を伺っているうちに、どうやらぜんそくの発作がふたたび強くなってくる気配がしてきました。
「くそっ、くそっ……」と心の中で悪態をつきながら、トイレへと立ち、あえて扉のある個室に入り、少し焦るような気持ちでアストール吸入器を使い続けましたが、もう手遅れでした。
どうやら本格的な発作へと進んでしまったようでした。
それでも、今日にかぎってそんな苦しい姿を先生に見せるのはどうしても嫌でした。
だから、外の景色が薄暗くなる頃まで、私は何食わぬ顔で先生との雑談を続け、時間をやり過ごしたのです。
六時過ぎ、資生堂の前で先生とお別れしました。
「これから夜店を見に行くんだ」とおっしゃる先生と、本当はまだお別れしたくない名残惜しい気持ちでいっぱいでしたが、だんだんと激しくなってくる息苦しさにはどうしても勝てませんでした。
くそっ、ぜんそくめ! くそっ、ぜんそくめ! 自分自身の不甲斐なさに腹を立てながら、私はすぐに自動車に飛び乗りました。
「やだねぇ、もっと早く帰っていらっしゃればいいのに……」
息をゼーゼーと言わせながら家の玄関で靴を脱いでいる私を見ると、妻は本当にあっさりとした調子でそう言いました。
「バカヤロー……」
私は思わずそう口走っていました。
あんな発作の苦しい時には、妻に対しても、いや、おそらく誰に対しても腹が立ってしかたがありません。
そして、自分は家族の間でさえ、まるで完全な孤独な他人であるかのような、ひどく冷たい寂しさを感じてしまうのです。
それこそは、ぜんそく持ちの人間だけが味わうことのできる、悲しい宿命のようなものなのかもしれません。
エフェドリンの錠剤を二錠飲み、すぐにベッドに横になりました。

金曜日――。
土曜日――。二日間ともぜんそくの発作が出てしまい、とうとうベッドから起き上がれなくなってしまいました。
今年の元日からは、一度も病気で寝込むことがなかったので、「生まれて初めての素晴らしい記録だ!」と思っていたのですが、やっぱり一年間をそのまま走り抜けることはできませんでした。
それでも、アドレナリンの注射をしなくてはならないような、ものすごい激しい発作にならずに済んだのは幸いでした。
それに、こうしてベッドに横になっていたおかげで、『文藝春秋』『三田文學』『中央公論』『改造』『話』『オール讀物』『モダン日本』などの十二月号や、エラリー・クイーンの推理小説三作、それに土居市太郎八段からプレゼントされた『将棋作戦学』まで、積んであった本をすべて読み終えてしまいました。
この点だけは、たまには病気で寝込むのも悪くないな、なんて勝手なことを思ったりもします。

日曜日――。
やっとぜんそくの発作も落ち着いたので、午後の半日だけ起き上がることができましたが、夜になってまた布団に入り、ラジオなどを聴いているうちに、なんだか急に体に寒気がしてきました。そこで体温計をはかってみると、熱は38度1分。

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