先生もさぞやお困りのことだろうとお察ししまして、私もまあ、ちょっと顔が利くようになりましたもんで、どうにか手に入れてまいりました!」
「それは一体なんですか?」
彼はまたクスリと笑って頭をかくと、やおら注射をするようなしぐさを見せた。
「なんだい? ヒロポンかい?」
「い、いやとんでもございません。
あれでございますよ。
先生がお使いになっていた例の、麻薬ってやつです」
私もこれにはすっかり呆れてしまった。
世間のデマが、まさかこんな珍妙な現実のカタチになって現れようとは。
君ね、麻薬って、モヒ(モルヒネ)のことかい?」
「そうです。
イエス!
エッヘッヘ」
彼は再び頭をかいた。
クスリと笑い続ける彼の瞳には、なぜかものすごく深々とした愛情がこもっていた。
「私自身はこれを使っておりませんが、よーく知っているのでございます。
中毒になって入院する。
入院中もこっそり抜け出して、ちょこっと用事をしにおいでになるもんですナァ。
骨身を削られるような思いがするという話も、まあ、私もちょいちょい耳にしておりますんで、先生のようなお方は、ゴロツキってわけじゃなし、仲間からの連絡もなくてさぞお困りだろうと思いまして、エッヘッヘ。
そうなんです。
この精神病院なんぞと申しまして、鉄の格子に、頑丈な扉や鍵を物々しくやっておりますが、私たちの方からすりゃ、赤子の手をひねるようなもんでございますよ。
みんなちゃんと裏でつながりがありまして、ワケのないことでござんすよ。
鉄格子の隙間から注射器と薬を差し入れてやりゃあ、なんのことはありませんや。
ゴロツキの中毒患者の連中は、病院の中でいかにもおとなしく、みんなそれを使っておりますんで。
エッヘッヘ。
文明でござんすよ」
「へえ、近代文明なもんだねえ」
私もこれにはすっかり感服してしまった。
そして彼の厚意の中に、言いようのないほどピュアで清らかなもの感じ取り、思わずホロリと涙が出るほど心を打たれたが、それだけに、すべてはただのデマなのだと事情をわけて説明するのは、非常に心苦しい思いだった。
私のたどたどしい説明を最後まで聞き終えると、彼はたまらなく情けなそうな顔になった。
私は逆に、彼をなだめるのに一苦労したほどだった。
「ご退院も近いようで、お元気そうなご様子を拝見いたしまして……」
と、彼は急に改まったよそ行きの、まるで別人のような丁寧な挨拶を口にし始めた。
「あんまり思いつめたりなさるからでございましょうが、また、先生が華々しくご活躍なさる日も近いことと思いますと、私のような者でも本当にうれしく、はなはだ光栄でございます。
ご退院の折には、ぜひお立ち寄りくださいまして……」
と言い残し、彼は細かい図面入りの住所を紙に書いて帰っていった。
そこはとある歓楽街の碁会所で、彼の自宅というわけではないが、昼間は必ずそこにいるからと言い残していった。
退院して間もない、ある日の夕方だった。
彼の住む歓楽街の近くへ用事があって出向いたのだが、そこは私にとって初めての土地で、おまけにその日は一人きり。勝手を知った場所に戻って一杯やるのも億劫(おっくう)だし、かといってすぐに飲めそうな店も見当たらない。ふと、私は王子君五郎氏のことを思い出した。
彼の厚意に報いるのにもちょうどいい機会だから、彼を誘い出して、この辺りで一杯やろうと思ったのである。
碁会所はすぐに分かった。
「王子君五郎さんはいますか?」
と尋ねると、二人の若い女性がしばらく額を寄せ合ってヒソヒソと話し込み、
「ああ、そう、君ちゃんのことね!」
と、一人が大きな声で叫んだ。
「なんだ、君ちゃんのことか」
二人の女性はくすくす笑った。
「君ちゃんはね、もういませんよ。お風呂に行ったはずだから、今日はもう来ませんわ」
「どこかへ行けば、会える場所があるんですか?」
「それは、お店よ」
「お店?」
「ご存じないんですか?
カフェー・ゴンドラといいましてね、そこの路地を入った中ほどにあります。
もう出たころでしょうけど、まだお店にいないかも知れないわね」
私はお礼を述べ、その路地へと向かった。
そこは軒並みにカフェーが立ち並んでいる場所で、それぞれの戸口に美人ウェイトレスが立って、路地に迷い込んできた通行人に声をかけたり、時には腕を掴んで引きずり込もうとしたりしていた。
私は目指す「ゴンドラ」を見つけると、ズカズカとその中へと入っていった。王子君五郎氏は、きっとそこのバーテンダーなのだろうと思ったのだ。
しかし、バーテンダーはその彼氏ではなかった。
店内を見回してみたが、まだほかに客は一人もおらず、ウェイトレスのほかに男性の姿は見当たらなかった。
「このお店に、王子君五郎という人がいるって聞いたんですが、もしかして、常連さんの中にそういう方はいませんか?」
「君ちゃんでしょう。
ええ、いますよ!」
ウェイトレスは迷うことなく、ずばりとそう答えた。
「君ちゃーん!
お客さまだよー!」
もう一人のウェイトレスが、店の奥に向かって声を張り上げた。
ここから先、いったいどんなことが起こったか——。
「クイズ二十の扉」や「話の泉」といったクイズ番組で、日頃から頭をしっかりきたえている皆さんなら、もうお分かりですよね?
あと、三十秒。
ここでチャイムが鳴らなかったら、皆さんの方こそ、当事者の私よりもずっと勘が鋭くて優秀な名探偵というわけです。
王子君五郎氏は、まさしく目の前に現れてきた。
しかし、彼を「君五郎氏」と呼ぶのは、あるいはふさわしくないかもしれない。
「君ちゃん」である。
とはいえ、「君ちゃん」と呼ぶのもなんだか妙な感じだが、動物園のゾウに「花子ちゃん」と名づけてそれで立派に通用する世の中なのだから、「君ちゃん」でもきっと問題ないのだろう。
ジキル博士とハイド氏ほど、おそろしくて悪魔的な二面性というわけではない。
しかし、目の前に現れ出でた「君ちゃん」は、なんと女性だったのだ。
それでいて、まぎれもなくあの王子君五郎氏でもあるのだった。
上野の森あたりでは、すでにすっかりおなじみとなっている、非常にありふれた日本のワンシーンにすぎないのかもしれない。
しかし、かつて「旋盤工(せんばんこう)の王子君五郎」として知り合った私にとって――決して女性的ではなく、むしろズングリとしてゴツゴツした節くれた手のあの男を知っている私にとって、この出現が奇絶怪絶、あまりにも度肝をぬかれる出来事だったことは、どうか同情していただきたい。
君ちゃんは確かに女装をしていたが、女装をしているという点を除けば、女らしいところはこれっぽっちもなかった。
第一、普通の男娼なら、しゃべるときは女性の言葉づかいを使うものだ。
しかし君ちゃんはそうではない。
私に気をつかってそうしているわけではなく、私以外の男女と普通に会話しているときの態度を見れば、それが彼の日常なのだということがよく分かるのだった。
「エッヘッヘ。
まったく、どうも、恐縮です」
最初こそ少しだけ恥ずかしそうに照れていたが、あとはもう、まったく悪びれる様子もなかった。
「実はですね、
これも世間を渡っていくための知恵なんです。
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