初級翻訳・吹雪物語 第46話

吹雪物語

その中に、ところどころに色刷りの精密な挿絵を挟んだ大型の一冊があった。
その絵は色刷りのせいもあるが、特別に妖しい香りが漂い、不思議な夢と秘密のささやきを包み込んでいた。
それは決闘の絵であった。
緑の木立に囲まれた小さな草原に、二人の異人が向かい合って立っていた。
銃身がたいそう長い、古風なピストルを構えていた。
二人の異人は痩せ型で端麗な顔立ちをしており、野々宮の記憶によると、たしか鼻ひげがあったようだ。
当然のことではあるが、赤い髪、そして青い瞳が、少年に異様な思いをそそらずにはおかなかった。空は透き通るような青でした。光り輝く草原の絵でした。
ページをめくると、次の絵には、外国人の一人が草原の上に倒れていました。真っ白なシャツに血がにじみ、友人の腕に抱かれていたのです。
しかし、少年の心を何よりも切なく揺さぶったのは、その次の挿絵でした。華やかな飾りのついた椅子の上に、ひとりの美女が身を投げ出し、長いドレスの裾をひきずりながら、泣き崩れていたのです。
撃たれた男を介抱した、あの友人なのでしょうか。もう一人の男がうなだれて、部屋の片隅に立っていました。悲しい知らせを、その男が持ってきたのでしょうか。女の切ない心の痛みが、少年に「生きる悲しさ」というものを教えてくれるようでした。
その女は、挿絵のほとんど大半に、清楚な姿で登場していました。笑っていたり、真面目な顔をしていたり、くつろいでいたり。目のさめるような美しさ、そして優しさがありました。
すべての挿絵を見終えると、少年は思わずホッとするのでした。見てはいけない秘密の国をのぞき見たような戦慄が走り、異様な感動が深い澱(おり)となって静かに心に残るのです。妖しい夢を見終えたあとのような、切ない安心感と放心が、現実の空気とともに漂っていました。

本の山積みの片隅には、模様の古風なトランプがありました。異国の夢を焚きつけるような、飾りの多い燭台もありました。ナポレオンの首をかたどった紙切りナイフも出てきました。そして、本の間から西洋風の栞(しおり)が落ちたのです。
これは誰が使ったものなのでしょうか。魔法のランプの仕業のようなこんな不思議な品々が、陽の光もあまり差し込まない陰気なこの家に、どうして隠されていたのでしょう。この秘密は誰にも話してはいけないし、母さんに聞いてもいけない、と少年は思いました。
これらが父さんの使っていた品々だと聞かされて、少年はびっくりしました。父さんの本。父さんのトランプ。そして父さん。突然、異様な人物が少年の空想の中に生まれ出てきました。
「自分の父さんは、決闘で死んでしまったあの人なんだ」
「もしかしたら、実際は外国人だったんじゃないだろうか」
父さんはトランプをしたといいます。そして母さんも、父さんと一緒にトランプをして遊んだことがあるといいます。そんなことが、ありうるのでしょうか。少年は疑い始めます。
それならどうして、もうトランプをしないのかしら。父さんが死んだからでしょうか。いいえ。少年は冷たい罪悪感の震えを感じながら、心の中で叫んでしまうのです。
「父さんと一緒に、母さんも死んでしまったんだ」
今のこの母さんは、父さんと一緒にトランプをした母さんではないのだと。
少年は秘密の夢を育て始めました。その少年の夢の中では、現実のやつれた暗い母の姿は消え去り、本当の、そしてまったく別の母が生まれていたのです。その母はトランプをし、明るく笑い、子供と一緒にサーカスを見に行き、遠い国へ旅行をするのです。
少年は一日に一度、薄暗い秘密の部屋へもぐりこんでは、トランプの匂いを嗅ぎ、ナポレオンの紙切りナイフをもてあそび、そしてあの重たい本を広げて、決闘の絵を見るのでした。泣き崩れている可憐な美女こそが、本当の母のように思えました。少年は走るような戦慄を感じながら、その絵の美女を「母さん」と呼ぶのでした。本を抱きしめて、泣きたくなってしまうのです。このまま死んでしまいたいほどの感動の底に、自分を投げ出していたのでした。
そして少年の心には、戦慄と秘密に満ちた、罪深い妖しい魅力が花開いていました。現実を殺す喜びを知り、そして、彼は母を殺していたのでした。

野々宮の少年の夢を包み込んでいた静かな家は、もうありませんでした。ポプラの木陰はところどころ残っていましたが、切り開かれた立派な道が縦横に通じ、あたりは一面、文化住宅が立ち並んでいました。そしてもはや本もなく、母もすでに死んでいました。古い記憶も、ほとんど死んでしまっています。
それでも、決闘の絵だけは、記憶の底の方でまだ生きていました。思い出すと、まぶしい陽射しを受けた緑の森が生き生きと広がり、膝の上にまるで本があるかのように、古風な香りがまとわりついてくるようでした。
「あれは、アンデルセンの『即興詩人』の原本ではなかっただろうか」と、後年、野々宮は思いました。
しかし、『即興詩人』の内容と照らし合わせてみると、記憶とはだいぶ違っているようです。決闘の場は、草原ではなく酒場でなければならないはずです。また、美女が悲嘆に暮れている場面があるにしても、それもまた決闘の場の同じ挿絵であるはずでした。そして美女の胸の中には、血まみれになって撃たれた人が抱かれているはずなのです。撃った男がその傍らに立って、それをじっと見つめていなければならないのです。その場面こそが、『即興詩人』という物語のすべてを賭けた山場なのですから。

――記憶は、あまりに食い違っているようです。
とはいえ、少年というものは、常に自分に理解できる形にしか、記憶を留めておくことができないものなのです。いつからか、野々宮はあれが『即興詩人』だったのだと信じるようになっていました。
野々宮は、銃身の長い古風なピストルを思い浮かべるのです。そして、血まみれになったひとりの男を、思い出さずにはいられませんでした。
伝記の主人公である二人のうち、政治家の生家は、長岡市から少し離れた片田舎にあったのです。その家に泊まり込み、伝記の資料をあれこれ調べていたある日のことでした。土蔵の片隅にもぐりこみ、遺品の数々を眺めているうちに、望遠鏡や煙草入れ、旅行用の湯呑み、その他いろいろなガラクタ類と一緒に、埃まみれの六連発ピストルを見つけました。
明治三十七、八年の日露戦争の直後、政治団体を代表して戦地を視察に出かけた際、必要に迫られて持ち歩いたという古いものですが、それにしても、あの挿絵で見たような銃身の長いピストルほど骨董品らしいものではありませんでした。
今日の実用品と大差なく、ごく普通の型に近いのです。
携帯用のベルトにつるしたサックからケースに至るまで、ひと通り揃った状態で、埃をかぶっていました。
汽車でおよそ二時間の距離です。
あのあたりは雪の深い土地ですから、人力車も自動車も役に立ちませんが、汽車を降りてからは遠い道のりではありません。
橇(そり)で四、五十分も走れば、難なく着いてしまうでしょう。
伝記の資料を見落とした箇所があるからといって土蔵の中へ入ってしまえば、彼が何をしていても誰も見ている者はいません。

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