文子の心が本当に高梨を愛しているのなら、たとえ高梨が噂以上の悪人であっても、私は無理やりに二人の仲を引き裂こうとは考えていません。私は高梨に会って話をしたい。彼の本心を知りたいのです。文子が愛している男なら、私はその一分だけの良いところのために、九割九分の欠点も許してやりたいと思っているのです。ただ、高梨が文子を愛してくれさえすれば……」
左門の目は、不覚にも涙を宿そうとしていた。
野々宮はただ黙って頷きながら聞いていた。しかし、左門にとってはそれだけで十分だった。
己の述懐をこうして語っているだけで、胸に詰まっていた憂いが散っていくような、安らかな気持ちになれるのだ。
野々宮は疲れている。体も心も、すっかりやつれきっているようだ。
その切なさを目の当たりにしながらこうして語っているだけで、左門の憂いの悲しさが、開け放たれた静かな窓から安らかな外気に溶け出し、空の彼方へ流れていくように思われた。救われるような、遥かな心地がした。
野々宮は確かに疲れきっていた。
暗い夜が落ちてくる。雪が降る。霙(みぞれ)が敷石を叩いている。雨が降る。そして、吹雪の一日もあった。
野々宮は、由子の住む砂丘の麓の街の方へ、何度歩き始めようとしたか知れなかった。
未練だった。しかし、もちろん由子の住む街まで実際に歩くことなどない。その近くへ行くことすらないのだ。
二十歩、多くても百歩も歩きかけた頃には、諦めと惨めな放心に追い立てられ、ふと振り返ってしまうのだった。
そんなに愛していたのだろうか。夢を見ているような気分だ。
野々宮は茫然としてそう思う。しかし今となっては、何もかもがさっぱり分からない。
昔を思い出す手がかりさえ忘れ果てた、茫漠とした混乱だけが自分のものだという気がする。
そして卓一のことを思うと、血まみれの苦悶の姿をさらす男の顔が、どうしても頭に浮かんでしまうのだった。
野々宮の父は医師だったという。
西洋で医学を修めて帰国し、この雪国の暗い港町で開業した。
しかし、野々宮が四歳の時には、父はすでに狂って死んでいた。
発狂したのは死ぬ前年のことだった。それから一年近く、一室に監禁されていたのだそうだ。
ある黄昏時、食事を運ぶ家人の隙を見て座敷牢を脱出し、路傍で食べ物を漁りながら十日あまりさまよった末に、ある漁村の砂丘のくぼみで行き倒れているところを発見された。その時は、もう瀕死の状態だったという。
何を食べていたのか、あるいは病の悪臭だったのか、その体臭の生々しさに、人々は慄然として顔を背けずにはいられなかったと伝えられている。野々宮には、父についての記憶はなかった。
かつて隆盛を極めたと伝えられる病院の記憶もなかった。
彼が物心ついた時には、海へ続く砂の道沿いにある、ポプラや松の葉陰が深く、静かな家に、母と二人で住んでいた。
野々宮の母は、その時代にあっては先鋭的な女性であった。
彼女がちょうど娘盛りだった頃は、いわゆる鹿鳴館時代にあたっていた。
当時、新潟には英語教育を主としたキリスト教系の女塾があった。
英語の教科書には『ナショナルリーダー』が使われていたというから、今日の女学校とさほど変わりはないが、教師の多くは英米人で、西洋史や日本史のほかに、英米史を特に教えていたそうだ。
そして、洋式の体操も教えた。
体操の教師も外国人だった。
「万国地暦」と名付けられた世界地理を習ったという話だから、まだ西洋学問の始まりの時期であり、使われていた術語も今日のものとは違っていたらしい。
野々宮の母はこの学校の生徒であった。
ちょうど彼女が学んでいた時、成瀬と呼ぶ女塾の校主は女生徒たちを率いて、学校を東京へと移した。
今日の目白にある女子大学が、すなわちこれである。
わが国の女子最高学府の最も初期の卒業生の中に、因循姑息で臆病な、厭世的な港町の娘たちが大勢見出されるのは、こうした理由によるのである。
野々宮の母も学校の移転を追って、東京へ遊学したかった。
彼女は父に懇願した。
彼女の父は文明開化を謳歌する当時の通人であり、娘に英語とキリスト教を学ぶことは許したが、東京への遊学だけは許そうとしなかった。
東京へ行けない悲しみから毎日を泣き明かしている娘を見て、父は人生の真の幸せを与えようと、娘に男の愛と家庭を与えようとした。
婿の候補者が選定され、話は娘に伝えられた。
彼女は結婚を憎んでいた。
彼女の理想は真・善・美であり、聖母マリアのような純潔だった。
絶望のために混乱し、さらに幾夜も泣き明かしたのち、ある夜、ひらりと家を抜け出した。
東京へ行くための金も持っていなかった。
親しい友は東京へ去り、頼れる人はこの町にはいなかった。
くつろげる部屋さえもない。
彼女はやがて冷たく心を決めていた。
一生を神に捧げて、敬虔な祈りの日々を送ろう、と。
そして日頃教えを受けていた老宣教師ブレルスフォードの家を訪ねた。
その頃、電灯はまだなかった。
ろうそくのゆらめく光を顔に受けながら、張りつめた切ない決意を語るうちに、意識が次第に喪失していく妖しい過程を、まるで幼い頃の最初の眠りを知るかのような安らかなものに感じ、そして彼女はやがて意識を失っていた。
文明開化を謳歌するその通人も、感情の機微を知るという点においては、孔子や孟子の教えから五十歩百歩といったところであったらしい。
彼は娘の心根を憐れむよりも、犯した行為を憎もうとした。
そして娘を勘当した。
しかし人々の口添えもあり、やがて怒りも和らいで、娘は許されて家へ帰り、そして婚約も解消された。
当時、ブレルスフォードは中大畑町に小さな私塾を開いていた。
彼女はやがてそこに通い、のちに助教師に抜擢されて、その生活は数年続いた。
たまたま野々宮の父が帰国して、この厭世的な港町に開業し、彼女を配偶にと懇望した。
その時、彼女は二十五歳であった。
もはやわがままは通らなかった。
食事も喉を通らない日が続いた。
そして泣く泣く結婚した。
鹿鳴館の絢爛な夢が、ちょうど消え去ろうとしていた頃だった。
彼女の夢も、終わりを告げたのであった。
マリアの理想を捨てた時、彼女は少女の叡智を捨ててしまったのだ。
そして彼女は婚家に伝わる仏教に帰依し、冷めてしまうがゆえに夢を憎み、傷つくがゆえに理想を恐れ、諦めを知り、因循で姑息な市井の安危に心を動かされるようになった。
野々宮が物心ついた頃、彼女はもはや無気力な土地の宿命を背負った、この港町で生まれ育った悲しい一人の母となっていた。
志が高い者の生涯に待ち受ける不平と不幸を恐れるあまり、努めて子供には平凡をすすめ、気概を憎み、その臆病な姿にむしろ慈しみの思いを寄せていた。
野々宮が十歳前後の頃だった。
普段使わない薄暗い部屋のひとつで遊んでいるうちに、ふと押し入れを開けてみると、見慣れない洋書が積まれているのを見つけた。
息をかけると濡れた跡がつくような革の表紙の本もあり、持ち上げるのが重いほど大きな本も混ざっていた。
顔の近くへ持ってくると、古風な香りがまとわりつく。
ところどころに絵のある本も四、五冊あった。
みんな奇怪な感じのする異人の姿である。
そして異国の風景である。
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