初級翻訳・桜の実の熟する時 第7話

島崎 藤村

「一時は、もうお前さんのことを(書生として置くのを)お断りしようかと思うくらいだったんだよ……」
その言葉の調子は優しかったのですが、心の急所にスッと突き刺さるような、細い針のように鋭い響きがありました。
捨吉は思わず顔を真っ赤にしたり、あるいは青ざめたりしました。
「お兄ちゃーん!」
広い勝手の上がり口のほうから捨吉を見つけて、大きな声を上げながら入ってきたのは、田辺の家の一人息子でした。
弘(ひろし)という名前で、捨吉とはまるで本当の兄弟のように可愛がられ、一緒に育てられてきた少年です。
「この暑いのに、帽子もかぶらないでいったいどこへ遊びに行っていたんだい?」
と奥さんは母親らしい優しい小言を言うような調子で言いました。
生まれつき体が弱かったこの奥さんに、どうしてこんなに元気な男の子が授かったのだろうと周囲から言われているのが、この弘でした。
一の頃は、弘もよくひきつけを起こしたりして心配させたものですが、お婆さんをはじめ家族みんなの献身的な看病と愛情のおかげで、ぐんぐんスクスクと成長し、めっきりとたくましく強そうになっていました。
おまけに、将来がとても楽しみになるほどの賢さも見せていました。
お婆さんは茶戸棚の方へと歩いていき、美味しそうなお饅頭などを取り出すと、孫の弘と捨吉の二人に分けてくれました。
「弘、写真を持ってきてお兄ちゃんに見せてあげおくれ」
と奥さんは弘をそばに呼び寄せると、少しほどけかけていた水浅黄色の帯をキュッと締め直してあげました。
弘が部屋から持ってきて捨吉に見せた写真は、父親と一緒に写っているものと、弘一人で写っているものの二枚でした。
近所の子供たちと同じように、弘もいくらか袖の長い着物を着て写真に写っていましたが、その都会的なハイカラな風俗がいかにもよく似合っていて、とても可愛らしく見えました。
「本当によく撮れていますねぇ」
と捨吉が感心して言うと、お婆さんから奥さんへ、奥さんから主人へと、三人はもう一度その写真を順番に回してじっくりと眺めました。
主人は目を細めて、可愛くて仕方のないといった様子で、その写真にいつまでも愛おしそうに見入っていました。
「弘くん、こっちにおいでよ」
と捨吉が声をかけました。
すると彼は弘をひょいと自分の背中にオンブして、部屋から部屋へと家の中を探検しに歩き出しました。
夏らしく障子や唐紙(からかみ)などもすっきりと取り除かれていて、台所から玄関、そして茶の間の方までが見通せるほど開放的になっていました。
茶の間はふだんは応接室がわりにも使われており、芝居の仕切場の人だとか大札の人間だとか、芝居茶屋の女将さんだとか、そういった関係者ばかりでなく、いろいろな客が入れ替わり立ち替わりやってくるたびに、捨吉がよくお茶を運んでいた場所でした。
彼は弘を背中に乗せたまま、茶の間からトントンと庭のほうへと降りていってみたのでした。青桐が濃い葉の陰を落としているあたりに沿ってぐるりと一回りすると、庭から奥座敷がよく見えた。土蔵の上がり口のほうまですっきりと見通すことができる。
細君は、捨吉の背中に乗っている弘の方を見て、
「おや、おかしやねえ。あんなに大きな体をして」
と、奥座敷の中から声をかけた。
奥座敷では、午後の退屈しのぎに花骨牌(はなかるた)が始まっていた。
お婆さんと主人が細君の相手になり、病気が治ったばかりの細君の気分を慰めようと、一緒に小さな札を並べて遊んでいたのだ。
「弘がまだ小さかった頃は、よくあんなふうにお兄ちゃんにおんぶされて歩いたもんだよ。一度なんか、深川のほうまで……」
お婆さんは札を取り上げながら、庭のほうを眺めて目を細め、
「でも、二人ともすっかり大きくなったもんだねえ」と言った。
「さあ、今度は誰の番ですか」と、主人は楽しそうに笑いながら切り出した。
「あたしだよ」
お婆さんは、自分の手に持っている札と、そこに置かれた札とを見比べた。
「弘は、お母さんのそばにおいで」
細君に呼ばれて、捨吉は背中に乗せていた弘を縁側のところに下ろしてやった。
弘はまだ子どもらしい無邪気な眼差しで、母親のそばにちょこんと座り込んだ。そして、いろいろな模様が描かれた花骨牌を物珍しそうに見比べていた。
「桐を出せよ」
主人は積み重ねられた札の中から一枚をめくり、パッと打ち下ろした。
「おやおや、雨坊主(あめぼうず)だねえ」
今度は細君の番が回ってきた。
「どうも、お気の毒さま。菅原(すがわら)ができましたよ」
細君はきれいに揃った札を並べて見せた。
それを見た主人は、自分の額に手を当てて、楽しそうに声を上げて笑った。
間もなく捨吉は、庭下駄を脱ぎ捨てて、勝手口の近くにある井戸へ水汲みに出かけた。
まだ水道という便利なものが世になかった頃のことである。
捨吉は素足に裾をまくり上げ、手桶を提げて表門の内側にある木戸をくぐり、茶の間の横を通って、平らな庭石のある場所へと出た。
庭の垣根には、長春(ちょうしゅん)の花が燃えるように赤い色をして、枝を優雅に垂らしていた。
捨吉が水を打ちまわるたびに、奥座敷にいる人たちはみな、涼しさを求めて庭のほうへと視線を移した。
庭の隅の葉蘭(はらん)などが、サラサラと心地よい音を立てた。
濡れた庭の土や石は、喉からからに渇いた水を飲み干すかのように、見る見るうちに乾いていった。
捨吉は茶の間のほうへも手桶の水を向け、低い築山(つきやま)風に作られた庭の中にある、楓(かえど)の枝葉にもたっぷりと水をかけてやった。
木の幹を伝って落ちた打ち水は、根元の土の上をサーッと流れ、細い川の流れのようにかたどられた小石の隙間へと染み込んでいった。
茶の間の前を覆う、深く明るい楓の葉陰は、捨吉が一番お気に入りの場所だった。
その一本一本の幹は、彼にとって親しみの深い、大切な友だちのようなものだった。
楓の奥には、一本の楠(くすのき)の若木もひっそりと隠れている。
素足のままの捨吉は、静かな緑の葉からポタポタと涼しそうに落ちていく打ち水の雫を、じっと見つめていた。
ふたたび捨吉は庭の土を踏みしめながら井戸のほうへ戻り、水でいっぱいの手桶を提げてやってきた。
茶の間の小障子の脇には、乙女椿(おとめつばき)などの木もある。
その乾いた葉にも水をかけ、表門の内側にある竹の根元にも丁寧に水を撒いてやった。
彼はさらに、門の外側へとまで水を運んでいった。
熱くて、でもどこか心地よい汗が、彼の額をタラタラと流れ落ちてきた。
最後に、お客さんが出入りする格子戸を開けて、庭のタタキ(たたき土間)のほうも綺麗に洗い流した。
そこには、白くて滑らかな四角い寒水石(かんすいせき)が敷かれている。
その冷たい石の上に足を投げ出し、上り框(あがりかまち)のところに腰掛けながら、彼はひと息ついて休んだ。
玄関の片隅のほうをふと眺めると、壁にぴったりと寄せられた本箱や机などが、まるで彼を待ち受けているかのように見えた。
花骨牌の遊びにもすっかり飽きた頃、細君は奥座敷の縁側のほうから玄関の通り口へとやって来て、そこにじっと佇んだ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました