初級翻訳・桜の実の熟する時 第4話

島崎 藤村

神様が特別な恵みをその身に授けてくださったのです」
長いヒゲの男は、手に持っていた古い革表紙ですり切れた聖書をパタパタと振って言った。

その時、捨吉はこの人たちの話を聞いて、これから洗礼を受けようとしている一人のまだクリスチャンではない娘がいることを知った。
そして、まさにその受洗の儀式がこの教会堂で行われるということも知ったのだった。
教会堂の石垣の近く、果物屋の前の方から、おしゃべりをしながらやって来る二、三人の婦人たちのグループがあった。
その中に、捨吉は浅見先生の奥さんの姿を見つけた。
懐かしいような気持ちになって、彼は奥さんのほうへパッと駆け寄った。
「ちっとも顔を見せませんねえ。
岸本さんはどうなさったんだろうって、みんなで噂してますよ」
相変わらず無邪気で、人の良さそうな口調で、奥さんは捨吉にそう話しかけた。

教会堂の中には、時間が経つにつれて人々がだんだんと集まってきた。
左右の入口から分かれて入ってくる男女の信者たちは、そこに並べられている長い腰掛けの中から好きな場所を選んで、それぞれ思い思いの席に座った。
捨吉と同じ学校の生徒で、ここへ来て教えを聞こうとする者もかなりいた。
みんな晴れやかな顔つきで連れ立ってやって来て、ずっと前の方の席に座る者もいる。
説教壇のすぐ前のところに、一人だけ特別に腰掛けさせられているのが、その日まさに洗礼を受ける娘なのだと分かった。
係の執事が、赤い小さな讃歌の本をあちこちと配って歩いていた。
ここへ来て自分の魂を預けるかのような人たちは、一番前の方で首を垂れている娘の後ろ姿をじっと見つめていた。
彼女がこれまでの過ちを悔い改め、もうすぐ受洗を迎えるという緊張と感動で震えているような髪や、神の霊によって救われたというその体を、まるで何か神聖な啓示にでも接するかのように見つめているのだった。
そして、その日に行われる特別な儀式によって、普段以上の深い感激を心待ちにしているかのように見えた。
そんな人たちの中で、捨吉は一人の靴屋の職人と並んで、みんなの後ろの方の席に黙って腰を下ろした。

浅見先生の姿が説教壇の上に現れた。
式が始まると、婦人席の中からオルガンの前の方へと歩いて行ったのは、ほかならぬ繁子だった。
捨吉は、たくさん並んでいる人たちのすき間から、彼女の姿を目で追った。
彼女が腰掛けをグッと引き寄せる音や、足踏みオルガンの鍵盤の蓋を開ける音、そして讃美歌の楽譜のページをめくる音がはっきりと聞こえてきた。
捨吉には、そのオルガンの前に座っている彼女を見ていると、まるでかつての自分を見ているような気がした――
勿忘草(わすれなぐさ)の花の絵を描いて、そこに自分で一生懸命に覚えてきた英詩の一節を書き添えて、彼女にプレゼントしたあの頃の自分を思い出していたのだ。

捨吉の隣に座っている靴屋の男はこの教会の古株の信徒で、自分が手に持っている讃美歌の本を捨吉の方へ見せ、「一緒に歌おうよ」という意味を込めて目で合図を送ってきた。
捨吉はまるで機械のように、言われるがままに立ち上がったり、腰掛けたりした。
ちょうど、いま洗礼を受けようとしている娘が長老に手伝われて、浅見先生の前に立ち、クリスチャンとして守るべき約束の条項を読み聞かせられているところだった。
先生が読み聞かせるたびに、娘は何度もこくりと頷いてみせる。
それを見ていると、自分が学校の他の青年たち四人ほどと一緒に並んで、一緒に洗礼を受けた時のことが、まるで遠い夢のように捨吉の胸にフワリと浮かんできた。
あの時もやっぱり、浅見先生が司会をし、繁子がオルガンを弾き、信徒のみんなが歌う、この同じ教会堂でのことだった。
あの当時のことを思い返してみると、青年会だの親睦会だクリスマスだと言って、半分夢中になってワイワイ騒いでいた捨吉の心なんて、いったいどこへ行ってしまったのだろう。
教会堂風に造られた正面のアーチも、高い天井も、窓の形も、あの頃となんら変わらずそこにあるというのに。十字架の飾りを施した説教壇も、その上に載せた大きな金縁の聖書も、あの頃のままそこにありました。
しかし捨吉の目には、そのすべてが何だか空っぽなもののように感じられてしまったのです。
かつて彼の心を熱くし、輝かせてくれたはずのものは、まるで幻のようにすっかり消えてなくなっていました。
いよいよ勝利の歌を歌うかのように、信徒たちによる讃美歌の合唱がまた始まりました。
「ハレルヤ、ハレルヤ――」

病気から元気になったお祝いに、神様を信じて洗礼を受けたいと願った可愛らしい女の子が新しく仲間に加わったことは、みんなの歌声をさらに元気いっぱいに響かせているように捨吉には聞こえました。
「ハレルヤ、ハレルヤ
   ハレルヤ――アーメン」

浅見先生の素敵なお話やみんなでお祈りをする時間が終わり、やがて集まった人たちがぞろぞろと帰り支度を始めると、捨吉は靴屋のおじさんのそばをサッと離れ、人の波をかき分けるようにして通り抜け、教会の入り口にある石の階段をトントンと下りていきました。
なんの安心感もなく、悩ましい、沈み込んだ気持ちのまま、捨吉は寄宿舎の自分の部屋へとすごすご引き返していきました。
部屋は、勉強するための部屋と寝るための部屋の二つに分かれています。
寝室の壁にぴったりと寄せて、畳が敷かれたベッドが作り付けられていました。
彼はそこに倒れ込むように体を投げ出し、ベッドに顔をうずめたまま、神様に祈りました。
もうすぐ三年生が終わろうという時期のことでした。
翌朝、教室にみんなが集まってみると、学年の最後に行われる英語の弁論大会の噂で持ちきりでした。
下級生の学生たちがうらやましがる中、先生たちのおうちへみんな揃って招待された夜の楽しい思い出などが何度も語り合われていました。
捨吉の同じクラスの中には、年の離れた生徒もかなりたくさん混ざっていました。
「お父さん」と呼んでもおかしくないくらい、大人びた年上の人まで一緒に勉強しに来ていたのです。
そこへ、英語のエリス先生が教室のドアを開けて入ってきました。
先生が主に教えているのは、上手に気持ちを込めてスピーチをする「エロキュウション」という授業でした。
「ナウ、ジェントルマン――」
エリス先生はいつも、とても丁寧で礼儀正しい口調で、まるでアメリカの映画に出てくる紳士のように生徒たちを一人前の大人として扱うのがクセでした。
「ミスター・岸本」
先生は、人の良さそうな丸いあごを捨吉の方へ向け、彼からも何か素晴らしい答えが返ってくることを期待しました。
「前はあんなに上手に答えていたじゃないか、どうしてそんなに黙り込んでしまったんだい?」と、先生の目が何かを問いかけるようにじっと見つめていました。
一度心の底から落ち込んでしまった捨吉は、まるで目に見えない高いはしごから落っこちてしまったかのように、毎朝の礼拝にも、文学会にも、他のクラスメイトたちが「我こそは!」と名誉ある賞金を手に入れようと意気込んでいる華やかな弁論大会にさえ、すっかり興味を失ってしまっていたのです。

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