初級翻訳・桜の実の熟する時 第3話

島崎 藤村

一時期、得意になって身につけていたお洒落な洋服の数々も、今自分で思い返してみるだけで耐えられないほど気恥ずかしく、嫌味なものに思えてきた。
良家の子女のファッション真似ていただけの自分は、まるで孔雀の羽をつけた烏(からす)のようだと笑われている気がしたのだ。
自分がこれまで口にし、行い、考えてきたことは、そのすべてが後悔の種へと変わってしまっていた。

校舎のほうへ近づけば近づくほど、捨吉は知った顔の人間と次々にすれ違った。
お馴染みのパン屋さんから、買い物を終えて出てくる下級生の生徒たちの姿もあった。
一時は教会の方で、自分と一緒に青年会などを立ち上げてワイワイ騒ぎ立てていた仲間たちが、いかにも青年の紳士らしい立派な靴音をポクポクと響かせながら歩いてくるのにも出くわした。
以前のように自分から気さくに声をかける気にもなれず、向こうも勝手が違うのか、気まずそうにほんの会釈をするだけで、お互いに離れ離れに同じ道を通り過ぎていった。
まわりの大きなお寺から、夕方の勤行を告げる鐘の音が鳴り響き始めた。
その音を聞くと、もうすぐ晩ご飯の時間なのだということが自然と実感された。

捨吉は学校の広々とした敷地を進み、アメリカ風の大きな講堂の建物の裏手へと出た。
たくさんの木々が生い茂る小高い崖のふちには、百日紅(さるすべり)の赤い花をつけた枝がしだれている。
その暗い葉陰にポツンと立って、一人で身振り手振りを交えながら、一生懸命に英語の演説の暗誦を練習している青年がいた。
捨吉よりはずっと年上の同級生だった。
捨吉の姿を見つけると、その同級生は百日紅の木のそばから離れ、ニコニコと微笑みながら近づいてきた。
そして、ガシッと力強く彼の腕をつかんだのだ。
「岸本くん――今日は土曜日なのに、家に帰らないのかい?」
とその同級生が尋ねた。
「だって君、どうせもうすぐ夏休みになるんだからさ」と捨吉は面倒臭そうに答えた。
「そうだな。もうすぐ夏休みが来るもんね」
遠い故郷からやって来ているその同級生は、自分の故郷の家族でも思い出したかのようにしみじみと言った。
食堂のまかないのおばさんが作ってくれる夕ご飯を味わおうと、二人は連れ立って食堂のほうへと歩いて行った。
普段は黙り込みがちな捨吉は、たくさんの若者たちがガヤガヤと賑わう席にポツンと腰を下ろし、あの繁子と思いがけず出会った日のことを胸に思い浮かべながら、ご飯を口に運んだ。

捨吉が食堂から外へ出た頃には、すっかり夕方の空気が丘の上全体を包み込んでいた。
すべての恋人たちを外へ誘い出すような、こんなにも楽しくて胸がときめく時間がやってくると、かつての彼はじっとなんてしていられなかった。
何となくフワフワと心が落ち着かず、あちこちに目移りしてしまうような浮かれた気分で、街へ出かけて女の子たちに会うのを心待ちにしたり、まだ見ぬお嬢さんの家の門の前で立ち尽くしてみたり、あるときは繁子のいる寄宿舎の方へ、あるいは彼女が働きに通っている学校の窓が見える場所まで足を伸ばしたりして、わけもなくブラブラとさまよい歩かずにいられなかったのだ。

だが、あの輝いていた夕方の魔法のような時間さえも、もうすっかり消え去っていた。
捨吉はすごすごと寄宿舎の自室へと戻った。
ルームメイトの学生は散歩にでも出かけたのか、部屋には誰もいない。
窓の外を覗いてみると、夕食を済ませた人たちが思い思いの方向へ向かって、広々とした運動場を横切っていくところだった。
英語の讃美歌のメロディを口ずさみながら庭を急ぐ者もいれば、まるで張り裂けそうなほどの大きな声を張り上げて、暗い木の陰から叫び声をあげる者もいた。
向こう側の講堂の前から庭にかけて、きれいに3棟並んで建っている西洋館は、どれも捨吉に英語や授業を教えてくれるアメリカ人の先生たちの家だった。
白いスカートを涼しげな風になびかせながら庭を散歩している先生の奥さんたちの姿も見えた。
夕方の配達を終えたばかりの牛乳の空き缶をぶら下げながら、庭を歩いて自分の部屋へと帰っていく同級生もいた。
流行り歌の一つでも陽気に歌ってみせるような、そんなちょっとした隠し芸や器用さを持つ者は、この貧しい苦学生である自分には一体どれほどあっただろうか。
学校で文学会が開かれたあの時、捨吉は余興の舞台に飛び出して、夢中になって芝居をして大はしゃぎしたことがあったっけ。
まるで夢から覚めた道化師のような今の自分は、牛乳の缶を提げて通り過ぎていく盲目の座頭(ざとう)の哀れな姿を見るのさえ、耐えられないほど惨めに感じられた。
誰が歌いながら歩いているのか、聞き慣れた英語の歌声が、すぐ目の前の窓の下から響いてきたのだった。捨吉はその歌を聞くと、同じように調子を合わせて口ずさんでみて、やがて自分の机の方へ行った。
白い肩掛けはまだ目に焼き付いていた。
彼はそこから引き出されてくるような、例えようのない胸のモヤモヤを紛らそうとして、部屋の隅に置いてあったランプを持ってきた。
そして机の上を明るくして見てみたのだ。
彼はまた、その火の灯ったランプを掲げながら、自分の愛読する書籍を取りに行った。

静かな日曜日の朝がやってきた。
寄宿舎に集まっている普通学部の青年たちの中で教会に籍を置いている者たちは、それぞれお出かけの支度をして、自分たちが通うそれぞれの教会堂へと急いで出かけていく。
食堂につながる一棟の建物の中に別に下宿している神学生たちも、それぞれ思い思いの方角をめがけて出かけていくのだった。
人々は一週間の安息を得て、心の栄養を得ようと、その日曜日を楽しく過ごそうとしていた。
浅見先生が牧師として働いている教会堂は、学校のすぐ近くにあった。
そこに捨吉も教会員としての籍を置いていたのだ。
その朝、彼はほんの少しだけ早めに時間を計って寄宿舎を出た。
そうすることで、会堂で繁子にばったり会うのをわざと避けていたのである。
若い女の子たちを引き連れて彼女が町を通ってくる大体の時刻は、もう分かっていたからだ。

谷を下りて、また坂になっている町を上っていくと、向こうの突き当たりのところに教会堂の建物が見えてくる。
十字架の飾られた尖った屋根に、朝の光がポッと当たって輝いているのが見えた。
町の片隅には、まるでそこだけ特別な世界を作り出しているかのように、二、三人の人たちが集まって楽しそうに立ち話をしていた。
どちらも教会堂の方でよく見知った顔ぶれだった。
捨吉は思わず足を止め、その人たちの会話に耳をそばだてた。
立派な長いヒゲを生やした毛深い顔の男が、いろんな手振りを交えながらこう言ったのだ。
「本当に、奇跡が起きたんです!」
その男の前に立っていた別の男は、首を垂れて熱心に聞いていた。
「お医者さんが一番はじめにそうおっしゃるんですからね」と、もう一人の老人が話を引き取るように言った。
老人は目をキラキラと輝かせていた。
「とてもあの娘は、私たち人間の力ではどうにも救えませんってね。
お医者さんがもうすっかり見放してしまった病人なんですよ。
それがあなた、ご家族のみなさんのものすごい熱心な祈りの力で、本当に助かったんですからね!」
「まったく、奇跡が行われたんですよ。

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