初級翻訳・桜の実の熟する時 第2話

島崎 藤村

その帰りに玉子と一緒に二人乗りの人力車に乗せられたことを思い出した。
その人力車の上で、この御殿山の小道を夢心地で揺られながら進んでいったことを思い出した。
玉子は間もなく学校を辞めて神戸の方へ帰ってしまったので、この女性との親しい付き合いは半年も続かなかったけれど、神戸から一通や二通の手紙をもらったことを思い出した。
その手紙の中には、高輪での楽しかった日々の思い出や、一緒に品川の海へ出て遊んだ時のことが懐かしく綴られていて、女性から初めて聞くような甘いささやきのような言葉が書かれていたことを思い出した。

いつの間にか、捨吉は古い奥平の大きなお屋敷の敷地内に入り込んでいた。
そのあたりは勝手知ったる場所で、彼はよくそのまわりを歩き回りに来ていたのだ。
道は平らになり、木々の間をあてもなく歩いていくことができる。
黒ずんだ荒い肌をした梅の木が、行く手にドンと立ちはだかっていた。
力強く張った枝の上の方には細い枝が重なり合い、青々と茂った葉の陰は暗いほどに物憂げだった。
たくさん開いていた唇のような梅の花も、今はもう小さな青い実へと変わる頃だった。
捨吉はこういう場所をあてもなく歩くのが好きになっていた。
彼は木の葉の青々とした香りを嗅ぎながら歩いた。

浅い谷を挟んで向こう側の丘の上に、浅見先生の新築した家が見えた。
神田の私立学校で英語を教えてくれた浅見先生が、この東京の郊外へ引っ越してきて住んでいるということは、捨吉にとってはまさに奇跡のような偶然に感じられた。
新しい家が建つ前、先生は二本榎(にほんえのき)のあたりに住んでいて、近くにある教会の牧師と、繁子たちが職員として通っている学校の教頭とを兼ねていた。
捨吉は一時期、その二本榎の家に少しの間置いてもらっていたことがあった。
そこから今の学校へと通っていたのだ。
捨吉が初めて繁子を知ったのも、その先生の家だった。
玉子を彼に紹介してくれたのも、先生の奥さんだった。
「いつまでもここに置いてあげたいとは思うんだけれど、家内はあんなふうに体も弱いし、細かいところまでお世話が行き届かないと思うからね――」
それが、先生の家を離れる時に先生から言われた言葉だった。
「私のすることは、少しもあなたのためになっていないって、そう言って叱られたんです――私に力が足りないから……」
それが奥さんの言葉だった。

捨吉から見れば、浅見先生は父親のようで、奥さんはお姉さんのようだった。それほど先生と奥さんの年齢は離れていた。
奥さんは繁子や玉子の友達と言ってもいいほどの若さで、その美しさは先生をとても夢中にさせていた。
一時期は先生も奥さんにかなり派手な格好をさせていて、ときには奥さんの頬にほんのりと人工的な美しさが彩られていることさえあった。
アメリカ帰りの先生はハイカラな洋服を着て、奥さんも裾の長い薄い色のスカートを引きずりながら、一緒に夕暮れの街を散歩しているところを、捨吉も見かけたことがあった。
けれど、新築の家の方へ落ち着いてからは、先生の暮らしぶりはぐっと地味なものになっていった。
彼は浅い谷の手前から、生い茂った木々の間を通して、向こう側にあるガラス戸がはまった先生の清潔な書斎、客間、廊下、そして隠れて見えない奥さんの部屋に至るまで、記憶の中でありありと思い描くことができた。

「浅見先生の家へも、もうしばらく行くことはないだろうな」
と、捨吉はひとりごちてみた。
この親しい家族の家へも、彼の足はすっかり遠のいていた。
彼は先生の家のまわりをただ歩くだけで満足し、やがて黄金色の生垣に囲まれた平屋の建物の横側や、勝手口の障子を遠くから眺めながら通り過ぎていった。

学校の校舎を目指して、捨吉は高輪の通りを歩いて帰っていった。
繁子が管理人をしている小さな寄宿舎のあるあたりや、アメリカ人の女性が住む西洋風の建物を街角に見ながら、広くて平らな道を歩いていくと、何頭もの牛を連れて歩く男の人なんかに出会う。
まだ新しい制服を着て、学校のバッチのついた夏帽子をかぶった下級生たちが、連れ立って学校から帰っていくのにもすれ違う。

学校に入ったばかりの頃、最初の1年半か2年ほどのあいだ、捨吉は本当にウキウキと楽しい日々を送っていた。
血気盛んな若者たちが集まる場所に来てみると、誰もそこまで厳しく彼の行動を監視する者はいなかった。
まるで鳥かごから飛び出した小鳥のように、自分の好きなように自由に振る舞うことができた。
高い木の枝の上から見下ろしたように、この広々とした世界を眺めていた頃は、自分が「やりたい」と思うことで、やれないことなど何ひとつないように思えたものだった。
学校には、東京だけでなく地方の裕福な家の子弟も大勢集まっていて、お互いに学生らしい流行を競い合っていた。
やわらかな黒いラシャの外套(がいとう)の手触りや、聞いていてうっとりするような柔らかい編み上げ靴の足音などは、どれほど彼の好奇心を刺激したことだろう。
いつの間にか彼もまた、お金持ちの家の子どもたちのファッションや振る舞いを真似るようになっていたのだ。彼は自分のセンスに合わせて特注したお気に入りの軽い帽子をかぶり、半ズボンを穿いて、長い毛糸の靴下をチラリと見せていた。そうして、顔をパッと輝かせた若い仲間たちと一緒に、たくさんの若い女性たちが集まる文学会へと出かけていったのだ。会場のあちこちでプログラムの冊子がパタパタとめくられる心地よい音が響く中、席に腰を下ろし、若い女学生たちの可愛い唇から紡ぎ出される英語の暗誦や歌声を聞いていると、彼はもう、何もかもすっかり忘れて夢中になってしまうのだった。
どこへ行っても、楽しい幸せが自分を待っているような気がしていた。
彼は若い男女が集まる場所や集会、教会の長老の家庭などに顔を出し、自分の心を幸せでいっぱいにしてくれるような、いじらしくて素敵な相手を探し求めた。
世の中の出来事は、どれも本当に簡単で、自由で、自分の思い通りにすべてが成り立っているように感じられた。
一足飛びに天国まで駆け上がろうと思えば、それさえもできそうに思えるほどだった。
あの身分の高い美しい未亡人に見初められて、一躍政治の表舞台へと駆け上がった貧しい青年ディズレーリの生涯などは、捨吉の空想を大いに刺激した。
彼は自分だって、いつかはあの名作『エンディミオン』のような素晴らしい小説を書いてみせるぞとさえ意気込んでいたのだ。

しかし、そんな儚い夢は、ある同級生の友達の一言によって無残にも打ち砕かれてしまった。
彼はそこで初めて、自分と繁子の間に変な噂が立てられていることを知ったのだ。
身に覚えのない、とんでもない浮名だった。
なぜなら、当時の彼の頭の中では、自分はクリスチャンとしてできる限り模範的に、正しく振る舞っていると固く信じ込んでいたからだ。
繁子と自分の付き合いなんて、若いキリスト教徒の間で行われる健全な男女の交際にすぎないと本気で信じ込んでいたのである。
けれども、そのおかげで彼はハッと現実へと引き戻された。
かつて彼を最高に幸せな気持ちにしてくれたはずの思い出が、今や彼をどん底へと突き落とす凶器に変わったのだ。

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