初級翻訳・桜の実の熟する時 第1話

島崎 藤村

ふと、彼は拾い上げた桜の実の匂いをかいで、まるで大きなおとぎ話の世界に入り込んだような、うっとりとした気分を味わった。
それを、若かりし日々のまばゆい幸せのしるしであるかのように、心の中で思い描いてみたのだ。
これは、自分が書いたこの物語の中で、若い読者たちにぜひおすすめしたい場面の一つである。
私は、東京の浅草にあった家でこの作品の執筆を始め、フランス・パリのポール・ロワール並木道にあるホテルへも原稿を持って行き、さらにフランス中部の街リモージュのホテルでも書き続け、日本へ帰ってきてからついにこの原稿を完成させたのだ。
この本は、私にとって長い旅の思い出がつまった、大切な記念の品なのである。

一

木陰になった坂道に沿って、岸本捨吉(きしもとすてきち)は、品川の駅のすぐ手前から高輪(たカナワ)へと通じる近道をトボトボと上っていった。
お客を乗せた一台の人力車が、坂の下の方から同じようにゴトゴトと上ってくる気配がした。
車輪が石ころにぶつかる音がガラガラと響く。
思わず捨吉は振り返り、
「あれは、お繁(しげ)さんじゃないか……?」
と、小さく独り言をもらした。
ひと目見ただけで、すぐにそれだと分かったのだ。
ここ一年ほどのあいだ、捨吉の方からできるだけ遠ざかるようにし、できれば二度と会わないでおこうと願っていた人だった。
その人が、いま人力車に乗って近づいてきていた。
避けよう、避けようとしていたその瞬間が、まるで待ち構えていたかのように思いがけなくもやって来たのだ。
まるでこれから何か決定的な結末が訪れるのを待つかのように、胸がドキドキと高鳴るのを抑えながら、捨吉はゆっくりと自分の方へ近づいてくる人力車の音を聞いていた。
近づいてきた丘のあたりは、ちょうど谷間のような地形になっており、そこからさらに急な上り坂へと続いていた。
まわりにはちょうど他の通行人の姿も見当たらない。
彼は、古い桑の木などが手入れもされずにポツンと生えている道の片側を選んで歩いた。
できることなら、その木陰に自分の体をすっぽり隠してしまいたいと強く願った。
進めば進むほど、道幅はどんどん狭くなっている。
人力車は、どうしても彼のすぐ脇を通らなければならない。
彼は桑の木のほうを向き、その根元あたりに生い茂ってきた新しい草の緑色を、見るともなくぼんやりと眺めながら、そこで人力車が通り過ぎるのをじっと待った。
かつてはあんなに親しかった人が見ているかもしれないのに、まるで道端の石ころか何かのように、ただポツンと突っ立っていた。
カタ、コト、カタ、コトと音を立てながら、人力車はゆっくりと彼の背後を通り過ぎて行った。
まだ若い捨吉は、これまでに経験したこともないような、なんとも言えない奇妙な場所に立たされている自分を感じていた。
眺めていた道端の草の色が、なぜかやけに彼の目に深く染み入った。
もう彼は、人力車と自分の間にできた距離を振り返って見ることができた。
深くくぼんだ地形に沿って曲がりくねっている、一本の細い道が見える。
道の片側にある草むらの根元に寄り添いながら、うっそうとした木々の下を進んでいく人力車が見える。
お繁は白いショールを体にまとい、何か深い物思いにふけっているかのように、ただうつむいたまま乗っていたのだ。
捨吉から見れば5つほど年上のこの若い女性と、彼との親しい付き合いは、いったいどのくらい続いただろうか、およそ1年ほどだっただろうか。
彼女が話しかけてくる言葉やしぐさは、なぜかいつも捨吉の心を夢中にさせた。
古い日本の習慣にはなかったような、若い男女の自由な交際というものを教えてくれたのも彼女だった。
人生で初めて、女の人から手紙をもらったのも彼女からだった。
そうした彼女の優しさや思いやりは、長い間ずっと彼の中にあった、少年らしい頑固で冷たい心を、すっかり優しく溶かしてしまったのだった。
夕方になると、彼の足は自然と、このお姉さんのような人のもとへと向かっていたのだ。
まわりのたくさんの学生の友達と同じように、彼も少し緑色がかった霜降りの制服を着て、胸のあたりの金のボタンをキラリと光らせながら、そよそよと吹いてくる心地よい風の中を歩いて通ったものだった。
星が美しく輝く空の下には、あるアメリカ人の女教師が住んでいる建物があった。
その敷地内には、お繁が管理している小さな寄宿舎があった。
その寄宿舎の入口で、玄関先で、時にはまだ年のいかない女生徒たちと一緒にいるお繁とさまざまなおしゃべりをして、ほんのひとときの黄昏(たそがれ)の時間を一緒に過ごすのが、彼の何よりの楽しみだったのだ。
お繁は編み物が大好きな人で、「あなたの好みに合わせた手袋を作ってあげるね」と言いながら、彼の目の前で長い毛糸の針をカチカチと動かし、おしゃべりをしながら手袋を編んで見せてくれたこともあった。
彼は、「もう二度とお繁に近づくまい」と心の中で固く誓っていたのだった。
たとえ途中ですれ違う機会があったとしても、できるだけ顔を合わせないようにし、もし遠くからでも姿を見かけたら、すぐに別の横道へ曲がってしまおうと決めていたのだ。
それなのに、この避けられない、しかも偶然の出会いは、二度と近づくまいと心に決めていた女性と彼を再び引き合わせてしまった。
お繁を乗せた人力車は、ちょうど急な坂道にかかり、右へ曲がり、左へ曲がり、がけの間の細い道を少しずつ進みながら上っていった。
捨吉が丘の上にたどり着いた頃には、もうお繁の人力車の姿はどこにも見えなくなっていた。
その道は、一方は御殿山(ごてんやま)へ続き、もう一方は古い奥平(おくだいら)の屋敷の脇を通って、高輪の通りへとつながっている。
その広い屋敷の中を自由に通り抜けていくこともできた。
捨吉は、後者の道を選んで歩いた。
思いがけなくお繁に出会ってしまった時のショックは、彼女の姿が見えなくなった後もずっと、捨吉の胸をドキドキと騒がせ続けた。
彼女を乗せた人力車が無言のまま自分の背後を通り過ぎていったことは、お互いに顔を見合わせることよりも、何か言葉を交わすことよりも、もっともっとヒヤリとする冷たい余韻を彼の心に残したのだった。
彼女の体を包み込んでいた、おそらく自分で編んだのだろう、あの初夏らしい白いショール姿が、あまりにも鮮やかに彼の目に焼き付いて離れなかった。
葬り去ってしまいたい過去の記憶――できることなら、目の前の新しい緑の葉っぱが、去年の古い枯れ葉をすっかり隠してしまうかのように――そうした様々な思い出が、どうしようもなく彼の胸にこみ上げてくるのだった。繁子のことを思い出すにつれて、もう一人の女性のことも続けて心に浮かんできた。
それはちょうど繁子と同じくらいの年齢で、同じようにある学校で教えていた人だった。
玉子というのがその人の名前だった。
玉子は繁子にはない魅力を補うかのように、どこか裏表のない無邪気なところを持っている人だった。
彼はこの少し年上の女性から自分の才能を褒められたことを思い出した。
「どうか、これからもお手紙をくださいね」と言われたことを思い出した。
ほかに二人の女性の仲間も交えて、玉子と一緒に品川の海へ小舟を漕ぎ出した時のことを思い出した。

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