ここまで一生懸命に生き抜いてくれたことに心から感謝して、これからは明るくあたたかい毎日を過ごしましょうね』
と、みんなで心の中で約束したのでした」
と、とし子さんは書いていました。
こうしてとし子さんは、亡くなった旦那さんの代わりにしっかりと家を守り、叡子さんをはじめとする多くの子どもたちを明るく素直に育て上げました。特に最近では、同志社を卒業した叡子さんをそばに置いて、その教えを導くことに心を配っていました。そして叡子さんもまた、お母さんを優しく助けて、家のしっかりとした支え柱になっていることでしょう。今こうして目の前にいる叡子さんを見ていると、その様子は想像に難くありませんでした。
私はこの日、午後から俳句の会があったので、お昼すぎにはどうしても出かけなければなりませんでした。そこで香葎くんと叡子さん、それにうちのおばあさん(妻)も加えて、四畳半の部屋にみんなでコタツを囲んで座り、その上で温かいお惣菜と一緒に簡単なお昼ご飯を食べることにしました。
小さなコップに一杯ずつのお酒をちょこっと注いで、ご飯の前にその盃を持ち上げ、お互いの健康をみんなで祝い合いました。特に、叡子さんがこれまでのいろいろな苦難に負けることなく、すくすくと素直にまっすぐ育ってくれたことをみんなで心から祝福したのです。
それは本当に、ちょっと舌の先を湿らせるくらいのほんの少量の日本酒でした。しかし、ご飯を食べ進めている途中のことでした。叡子さんの顔が、だんだんと赤くなってきたのです。
おばあさんがそれを見て笑いながら、
「まあ、叡子さん、お顔が真っ赤になっちゃったねえ」
と言いました。
叡子さんは恥ずかしそうに黙って両手で自分のほっぺたを押さえ、ちょっと席を移動して座り直しましたが、そのお顔はますます赤くなっていくばかりでした。
香葎くんも思わず笑い、私もつられて笑いました。
私はこのときの叡子さんを、とても美しいなあと思いました。
かつて素顔くんに肩を貸して、何も言わずに蓼川(たでがわ)までの道を静かに歩いていたあの頃の、どこか陰気で寂しげな面影はすっかり消え去っていました。控えめではあるけれどとても快活で、今こうして目の前で見ても、特に着飾っているわけでもないのに顔を真っ赤にして、たった一杯のお酒のほろ酔いにちょっぴり戸惑っているらしいその姿を、私はとても美しいものとして眺めていたのです。
のちに新年の俳句会のテレビ(あるいはラジオ)放送をしたとき、私はこのときの叡子さんのことをふと思い出して、こんな句を作りました。
この女この時艶に屠蘇の酔(このひとこのときつやにとそのよい)
あとから、聴いていた人たちから「この句の『この女(ひと)』っていったい誰のことですか?」という質問がいくつか届いたので、私はいつかの叡子さんとの楽しかった思い出をみんなに話して聞かせました。
その放送俳句会の手伝いのために、遠い豊岡(とよおか)から出て来ていた杞陽(きょうごくきよう)くんは、
「あの叡子さんが、ついに『この女』と呼ばれるようになったんですねえ」
と言って、楽しそうに笑いました。
その後、自分の家のある和田山(わだやま)へ帰っていった叡子さんから手紙が届きました。その手紙にはこんなことが書いてありました。
「先生がお出かけでご不在のすきに、奥様にお許しをいただいて、あの『俳小屋(はいごや)』の中をちょっとのぞかせていただきました。その場所には、先生が毎日毎日コツコツとお仕事を続けていらしたその様子が、ありありと目に浮かんでくるようでした」
手紙にはさらに、こんなことも書いてありました。
「かねてからお話に聞いておりました『椿子(ちんし/つばきこ)』さまにも、とうとうお目にかかることができました。この椿子が、いつも先生のすぐそばに寄り添って、明け暮れの寂しさをなぐさめてくれていたんだなあと思うと、なんだかとてもなつかしい気持ちになりました」
叡子さんも、お母さんのとし子さんも、昔は素顔くんの影響を強く受けて一緒に俳句を作っていました。
けれど、素顔くんが亡くなってからは、二人とも俳句を作っているという話はしばらく耳にしませんでした。
もしかしたらこっそり作っていたのかもしれませんが、少なくとも私にはそういう様子は伝わってきませんでした。
しかし、今回のことがきっかけで、久しぶりに香葎くんと一緒に私の家を訪ねてくれたのを機に、それからの叡子さんはまた香葎くんの仲間たちと一緒に、熱心に俳句を作るようになったようでした。
叡子さんたちが出した句会の原稿用紙が私のところへ回ってきたときには、「先生が選をして返してくださるのを、今から楽しみに待っています」という可愛らしい手紙が届きました。
そうして、「今度は私の句が二句選ばれました!」「今回は一句も選ばれませんでした……」といった近況を、その都度うれしそうに知らせてくれるようになったのです。
今年の庭の椿も、また見事な真っ赤な花を咲かせました。
相変わらず私は椅子に腰をかけて、毎日のようにその椿を眺めています。
けれど、昔のようなあの強烈な感動やインスピレーションは、もうはっきりと心に浮かんでくることはありませんでした。
この真っ赤な椿の花に全身を包み込まれて、雲に乗ったかのように自由気ままに大空をさまよい歩くような空想が、全く頭に浮かんでこないわけではありません。しかしそれは、現れてはすぐに消えてしまうような、とても影の薄い、ぼんやりとしたものになってしまっていたのでした。本箱の上の箱に入っている「椿子(つばきこ)」を見ると、それもなんだか元気がないように見えて、ほこりっぽく感じられた。
私はそれを机の上に下ろした。
私はふと、この椿子を叡子さんにプレゼントしようと思い立った。
なぜ叡子さんに贈ろうと思い立ったのかと自分で考えてみたけれど、その理由は自分でもよくわからなかった。
ただ、私が留守のときに叡子さんが「俳小屋(はいごや)」に入って、この椿子を見てなつかしく感じてくれた、ということ以外には特に理由は見当たらなかった。
それでも、ただなんとなく、叡子さんに贈ろうと思い立ったのだった。
私は叡子さんに葉書を書いた。
そして、椿子をあなたにあげようと思うのだけれど受け取ってくれますか、というような意味のことを伝えた。
叡子さんから返事が届いた。
「椿子さんを私に下さるとのこと、まるで夢のような気持ちで拝見いたしました。
あの可愛らしいお顔が思い出されてまいります。
ぜひぜひ、どうか私に戴かせてくださいませ。
身に余るほど光栄でございます。
三年間、先生のおそばを片時も離れなかった椿子さん、必ず可愛がって寂しがらせないようにいたしますから、どうか私に戴かせてくださいませ。
お葉書を手にして、奥の部屋にいる母と話をいたしました。
山椿の赤い花が、湿った岩の上に重なり合うように落ちています。
それから草取りをしている間も、鎌倉のお書斎にいらっしゃる先生や、お書斎のおそばにずっと控えている椿子さんのことを思い浮かべていました。
香葎(こうりつ)さまにお電話をして、大変なことになったと二人で話し合いました。
コメント