HMV(英グラモフォン)にはもう少し多くの曲が収められているはずですが、日本で発売されたのはこの4枚だけでした。
「アルト・ラプソディ(作品53)」は、ゲーテの詩に曲をつけたもので、ブラームスの歌曲の中でもひときわ輝く名曲です。
名アルト歌手のオネーギンと、クルト・ジンゲルが指揮するベルリン国立歌劇場管弦楽団によるレコードがビクターから出ています。
これもかなり古い録音ですが、オネーギンの豊かで美しい声と確かな歌唱テクニックは抜群で、ブラームスのレコードの中でも非常に価値のある一枚です(7417-8)。
数ある歌曲の中から、特に素晴らしいものをいくつか紹介しましょう。
「寂しき野辺(野の孤独)」は、野原の静けさを歌った、ブラームスらしい淋しい名曲です。
日本ポリドールのカタログには載っていませんが、スレザークの歌うものは絶品です。
その次に、私はゲルハルト(ビクター JD 75)やシュルスヌス(ポリドール D 117)の歌唱を推します。
「窓辺に倚りて」でゲルハルトを推すのは、私の懐古的な好みかもしれませんが(ビクター JF 4)、ロッテ・レーマンの「五月の夜」(コロムビア J 5483)や「我が恋は新緑の如く」(ビクター JE 33)などは、まるで若葉のように瑞々しく香る演奏です。
彼女には他にも3つ4つブラームスの歌曲がありますが、どれも素晴らしい出来栄えです。
エリザベト・シューマンの可憐な「子守歌」(ビクター JE 61)や、夫のピアノ伴奏で有名なテレーゼ・シュナーベルの「愛の誠」(ビクター JF 20)も可愛らしいですね。
ですが、それ以上にバリトンのシュルスヌスが歌った「愛の歌」(ポリドール 50036)の方が、はるかに優れていると感じます。
「サフォー頌歌」にはあまり良いレコードがありませんが、ナンシー・エヴァンスの「ジプシーの歌」(ポリドール E 124-5)は、独特の雰囲気を持った一枚です。
### 悲哀の権化 チャイコフスキー
「悲しみこそ、真の喜びへの入り口である」と、以前私は書いたことがあります。
チャイコフスキーの音楽を特徴づける、あの絶望的なほどの悲しみは、少しばかりセンチメンタルに聞こえるかもしれませんが、50年もの間、誰からも愛され親しまれ、その魅力を失っていないのは、まさにその「悲しみ」があるからだと言っても過言ではないでしょう。
チャイコフスキーの人の良さ、正直さ、気の弱さ、そして愛情の深さが、あの他に類を見ない「涙の芸術」を生み出し、春の雪解け水が大地を潤すように、人々の心に深くしみわたっていくのです。
本当に、「涙に満ちた作品」ほど、私たちを慰めてくれるものはありませんでした。
言い換えれば、チャイコフスキーの泣き濡れた姿――嗚咽やため息、慟哭に満ちた音楽――は、常に私たちのために、存分に泣くことさえ許されない私たちの代わりに、心から悲しんでくれている姿なのです。そしてそれは、悲しみのどん底にある喜びと、絶望の果てにある希望を、私たちにそっと教えてくれているのではないでしょうか。
この意味において、バッハの時代から高度に発達してきた西洋音楽の世界においても、チャイコフスキーほど人間らしく、そして彼の音楽ほど私たちに親しみやすい存在はありません。
チャイコフスキーの音楽に大衆性があるのは、それが低俗だからではなく、むしろ高貴であるからこそ、多くの人々の心に届くのだと言っても間違いではありません。
「憂鬱という音階を支配した」と言われた彼の絶望的な音楽の底には、言葉では言い表せないほどの温かさがあり、その悲しみや泣き声の中には、大きな光が差し込む予感が芽生えているのです。
バッハの神聖さは凡人には少し近寄りがたく、ベートーヴェンの情熱は、一般の人々の経験をはるかに超えたところにあります。
しかし、私たちのチャイコフスキーが描く悲哀と絶望感は、誰もが想像でき、誰にとっても身近な感情です。
私たちは日常生活の中で、悲しみの底まで味わい尽くすことができないもどかしさを感じていますが、チャイコフスキーの芸術に触れることで、初めて悲しみのどん底を突き抜け、浄化された悲しみの美しさを味わうことができるのです。
チャイコフスキーの音楽が万人に愛される理由は、誰もが経験しやすく、それでいて自分では表現しきれない感情の極致を、きわめて簡単に、そしてきわめて美しく描き出してくれたからではないでしょうか。いずれにせよ、独特の雰囲気と香りを持つ彼の音楽を深く知るためには、その波乱に満ちた伝記をたどることがどうしても必要です。チャイコフスキーの音楽は、まさに彼の性格そのものが深く刻み込まれているからです。
### 不幸の連続
ピョートル・イリッチ・チャイコフスキーは、1840年5月7日、鉱山技師の息子としてロシアのヴィアトカ県で生まれました。少年時代の彼は、天才として騒がれるような華やかなエピソードを何一つ持っていませんでした。しかし、彼の心には音楽を愛する気持ちがしっかりと根を張っており、勉強の合間にもすくすくと育っていきました。19歳で法律学校を卒業し、役所で働き始めてからも、音楽学校に通って自分の好きな道を追いかけることを忘れませんでした。
二つの仕事を両立させる生活は、長くは続きませんでした。まもなく和声学の先生であるアントン・ルービンシュタインから「音楽に専念すべきだ」と説得され、気の乗らない仕事と縁を切って音楽の研究に没頭することにしたのです。それが19歳の時のことでした。
ひとたび自分の進むべき道に目覚めると、チャイコフスキーの努力は目を見張るほどでした。ある時、先生のアントン・ルービンシュタインが作曲の練習課題として一つのメロディーを出し、「できるだけ多くのバリエーション(変奏曲)を書いてみなさい」と言いました。先生はせいぜい12曲くらい書けばいいだろうと期待していたのですが、チャイコフスキーはなんと200曲以上もの変奏曲を書いて提出し、先生を腰を抜かすほど驚かせたこともありました。
1866年、モスクワに音楽学校が開かれると、26歳になったチャイコフスキーは和声学の先生として招かれました。校長先生はアントン・ルービンシュタインの弟であるニコラス・ルービンシュタインでした。給料がとても安かったチャイコフスキーは、校長先生の家に居候をしていました。そして、一年前に名バイオリニストのウィニアウスキーが置いていった、自分の体には大きすぎるコートを着て、誇らしげに学校へ通うという、なんとも慎ましい先生でした。
その頃の彼は、トルストイやディッケンズの本を読み、ひたすら勉強と作曲に励んでいました。友達付き合いは決して上手ではなく、遊びごともお世辞にも得意とは言えなかったようです。その代わり、誰かに文句を言われても上機嫌で我慢し、攻撃されても言い返したり喧嘩をしたりすることは絶対にありませんでした。先輩のルービンシュタインはとても厳しい批評家で、遠慮も配慮もなくチャイコフスキーの曲の欠点を指摘しましたが、チャイコフスキーはそれに腹を立てるようなことはありませんでした。
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