初級翻訳・次郎物語 第4話

下村 湖人

次郎はここ二十日あまり、おねしょをすることもなく、お浜のそばで穏やかに過ごしていました。
そして、実家での記憶もようやく薄れかけていたところでした。
それなのに、今日は突然、お浜と一緒にいる時でさえ嫌がっていた方角へ、さほど親しくもない直吉に連れ去られようとしているのです。
これは次郎にとって、全く予想外の出来事でした。
直吉の肩の上で、次郎の小さな胸はどきどきと高鳴り始めました。
「いやだ、いやだ、あっちがいい!」
次郎は自分の両手で、直吉の顔を無理やり後ろの方へ向けようとしました。
しかし、直吉の顔は頑として南を向いたままで、どうすることもできませんでした。
それどころか、直吉の足は、次郎が暴れるほどにますます速くなる一方でした。
次郎はしくしくと泣き出しました。
泣き出しても、直吉は平気な様子です。
彼はただ黙々と南の方へ歩いていくだけで、一言も口を利きません。
次郎は泣きながら後ろを振り返りました。
学校の建物が、夕暮れの光の中で一歩また一歩と遠ざかっていくのが、たまらなく淋しく感じられました。
こうなると、次郎には諦めるか、戦うか、二つに一つしか道はありませんでした。
彼は決然として、後者を選びました。
――もともと次郎の勇気は学校との距離に反比例し、家との距離に正比例する性質だったので、戦うなら今のうちに仕掛けるのが得策だったからです。
それに、肩車に乗っているという状況は、次郎にとって有利な条件でした。
直吉の髪の毛や耳たぶを、自由に掴むことができたからです。
しかも幸いなことに、直吉の髪の毛はかなり長く伸びていました。
次郎はさっそく、その髪の毛を力いっぱい引っ張ることにしました。
「痛っ!」
直吉はとんちんかんな声を上げました。
しかし、彼の歩く方向は相変わらず変わりません。
つまり、次郎が進む方向も全く変わらないのです。
今度は思い切って、直吉の耳たぶを掴みました。
少しすべすべしていて、頼りない感触です。
次郎は全身の力をその小さな指先に込めて、直吉の耳たぶをぐちゃぐちゃに揉み上げました。
「ひいっ、この畜生め!」
直吉が悲鳴を上げました。
同時に、それまで次郎の足を支えていた両手を、思わず放してしまいました。
その瞬間、次郎の体は後ろへぐらりと傾きました。
次郎の十本の指は直吉の耳たぶを掴んだままでしたが、体重を支えるには少し力が足りなかったらしく、次の瞬間、次郎の体は砂利の固い道の上へ、ほぼまっさかさまに落ちてしまいました。
後頭部と肩のあたりに花火が爆発したような強い衝撃を感じて、一瞬ぼうっとなりました。
しかし、この瞬間こそが次郎にとって勝負の時でした。
彼は毬(まり)が弾むようにして起き上がりました。
そして、まっしぐらに学校の方角へ向かって走り出しました。
半分ほど走る間は、まるで夢中でした。
それでも、直吉が追いかけてくるのではないかと気になって仕方がありません。
そこで、走りながら少しだけ後ろを振り返りました。
すると直吉は、両手で耳たぶを押さえながら、恨めしそうにこちらを睨みつけて立っていました。
次郎はいくらか安心しました。
と同時に、ちらりと見た直吉の様子がひどく恐ろしく感じられました。
そして、急に言葉にできないような悲しみが、胸いっぱいにこみ上げてきたのです。彼は走りながら、精一杯の声を出して泣き出しました。
校門までたどり着くと、そこにはお浜が身を隠すようにして、彼を待っていました。
彼はもう一度大声を上げて泣きながら、彼女に飛びつきました。
お浜は黙って身をかがめ、彼に頬ずりをしてくれました。
次郎の涙は、いつしか甘いものへと変わっていきました。
心が落ち着いてくると、お浜に抱きついている自分の両手の指先が、妙にぬるぬるしていることに気づきました。
彼は涙で濡れた目をしばたたきながら、そっと指先を覗いてみました。
血です。どす黒い血の塊でした。
彼は、それをお浜に見られてはいけないような気がしました。
そこで、甘えたように鼻をすすりながら、そっと指先をお浜の着物になすりつけてしまったのです。

四 提灯

耳たぶの一件以来、次郎の警戒心は急に強くなりました。
たとえお浜と一緒であっても、もし彼女が校門を出て南の方角へ行こうとすると、彼はすぐに握っていた手を振り払いました。
また彼は、それっきり、どんなに誘われても、よその人におんぶされたり、肩車に乗ったりすることはなくなりました。
「もうそんなことをするのが恥ずかしい年頃なんですよ。やっぱり成長するにつれて、そういうことがわかってくるんですね」
お浜はよくそんなことを得意げに言っては、次郎の警戒心の理由を説明しなければなりませんでした。
お民の方からは、それ以来、三日に一度は誰かが次郎を迎えに来ました。
中には、「お浜が米代欲しさに次郎を手放したがらないのだ」などと陰口を叩き、彼女を怒らせる者もいました。
お浜にとって、次郎を手放すことはつらいことでした。
しかし、将来次郎が実家でどのような立場に置かれるのかを考えると、内心不安を感じずにはいられず、お民からの使いに対しても、ひどく反感を持つことはありませんでした。
むしろ最近では、「なぜもっと早く次郎を返してしまわなかったのだろう」と、後悔しているくらいでした。
特に「米代欲しさに次郎を手放さない」などと言われることは、彼女の気性として我慢がなりませんでした。
そんな時には、ついかっとなって、次郎を迎えに来た人のほうへ無理やり押しやるような真似をすることさえありました。
しかし、次郎に泣きつかれたり、逃げられたりすると、結局いつもそのままになってしまうのでした。

ところが、ある晩、突然お民自身が迎えにやって来ました。
これはお浜も全く予期していなかったことでした。
その時、次郎はもう寝床に入っていました。
真夏の頃で、寝床といっても茣蓙(ござ)が一枚敷いてあるだけでした。
むっとする蚊帳の外では、蚊がものすごい音を立てて飛び回っていました。
次郎のそばには、校番の弥作じいさんが寝ていました。
じいさんは、人を笑わせるような短い話をいくつも知っていたので、次郎はこの頃、お浜のそばよりもじいさんのそばで寝るのが好きになっていたのです。
じいさんはゆっくりと話をしながら、時折大きなあくびをしました。
するとそのたびに、しょぼしょぼした目尻から、ねばっこい涙がたらたらと流れ落ち、耳の方へと伝っていきました。
次郎は、自分の指先で、その涙に好きな道筋をつけてやるのが一つの楽しみでした。
その楽しみの最中に、お民がやって来たのです。
彼女は中へは入ってきませんでした。
しかし次郎は、声を聞いただけで、すぐにそれが誰だか、そして何の用で来たのかがはっきりとわかりました。
彼は小さな胸をどきどきとさせながら、眠ったふりをして耳をすませました。
話し声は、戸外の縁台から、うちわの音に混じって聞こえてきます。
「そりゃ、私だって今では一日も早くお返ししたいとは思っていますが……」
お浜の声です。
「やっぱり、帰ろうとは言わないのかい」
「ええ。

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