初級翻訳・次郎物語 第10話

下村 湖人

次郎はそれがいくぶん気がかりでしたが、「それなら僕、行くよ」と、先ほどからの自由な気分を失わないまま答えました。そして、自分の一言で明日の計画が決まったとき、彼は久しぶりに、お浜の家にいた頃のような穏やかな気分を味わいました。

間もなく俊亮は盃を伏せると、軽くお茶漬けをかきこみました。それから庭下駄を突っかけると、体操のような真似をしながら、縁台のまわりをぐるぐる歩きまわりました。

「もっとお涼みになりますか?」
お民がようやく口を開きました。

「うむ、縁台に茣蓙(ござ)を敷いてくれ」

お民が茣蓙を取りに奥へ入ると、恭一と俊三はすぐその後を追っていきました。
次郎はまだひとりで縁側に座ったままでしたが、その時、ふと彼の目に飛び込んできたのは、父のお膳に残された一切れの卵焼きでした。
次郎にとって、卵焼きほどのごちそうは世界に他にありませんでした。
そして、お浜の家での経験から、彼は「よほど特別な時でないと、そんなごちそうは食べられないものだ」と信じていました。
ところがこの家では、お祖母さんが離れで、時おり卵の壺焼きを作っては、おやつ代わりに恭一と俊三に与えているのです。
実際、今日の昼過ぎにも、二人がそれを食べながら離れから出てくるのを、次郎は廊下で見ていました。
彼はその時、平気なふりを装いましたが、二人の口から漂ってくる温かい卵焼きの香りを嗅がされた時には、自分だけを仲間外れにする祖母に対して燃えるような憎しみを覚え、「これから先、どんなことがあっても離れの敷居はまたぐまい」と決心したほどでした。

その卵焼きが、今、誰にも見向きもされず、冷たくお皿の中に転がっています。
次郎はどうしても自分を抑えることができませんでした。
しかし、手を伸ばす前に、まず茶の間の方を見ました。母が出てくるにはまだ少し間がありそうでした。
それから、庭を歩き回っている父を見ました。父はちょうど向こうを向いて歩き出したところです。
彼はすばやく卵焼きを掴むと、口の中に押し込みました。

「次郎、星が飛んだぞ。ほら」

次郎は、突然父にそう言われて、飛び上がるほどびっくりしました。
父は何も知らずに遠くの空を見ているのだとわかってからも、驚きのあまり、思い切って卵焼きを噛むことができませんでした。

「うむ……」

彼は返事とも質問ともつかない、変な声を出しました。
そして急いで縁先にうつ伏せになり、下駄を探すような格好をしながら、忙しく口を動かしました。
彼が下駄を履いて父のそばに立った時には、もう何事もなかったかのような顔をしていました。
たった今喉を通ったばかりの卵焼きの余韻を楽しみながら、彼は神妙な顔つきで、父が見ている空の方向へ視線を向けました。

そこへお民が茣蓙を運んできて、縁台に広げました。
俊亮はすぐに、ごろりとその上に横になって団扇を使い始めました。
お民もその端に腰を下ろしながら言いました。

「次郎も、みんなと一緒に寝たらいいじゃないの」

次郎は不満そうな顔をしました。すると俊亮が横から言いました。

「まだ眠くはないさ。まだ早いんだから」

「でも、外の子たちはもう寝ましたよ」

「ずいぶん早いじゃないか……次郎はもう少し父さんのそばで涼んでいけ」

「まあ、ずいぶんと次郎がお気に入りですこと……では、次郎、ここに座って父さんのお相手をしなさい」

次郎は最初、遠慮がちに縁台に腰を下ろしましたが、間もなく父と十センチほどの間隔をおいて、自分もごろりと横になりました。
彼はなぜか、父の真っ白でふっくらした裸の体に、自分の体をくっつけてみたくなりました。
彼の汗ばんだ体は、蚊に刺されたところを掻くような格好をしながら、じりじりと父の方へ寄っていきました。

「汚いっ!」

俊亮は突然、びっくりするような声で怒鳴りながら、跳ね起きました。
――彼は鷹揚(おうよう)で情け深い性格とは裏腹に、一面では神経質で潔癖なところがあり、他人の家で畳に手をついたりすると、帰ってから何度も手を洗わずにはいられない性質だったのです。

「どうなされたのですか?」

さっきからそれとなく次郎の様子を見守っていたお民が、やけに落ち着いた様子で尋ねました。

「次郎のベタベタする体が、いきなり触れてきたからびっくりしたんだよ」

俊亮は、次郎に触られた横腹のあたりを、団扇の先でしきりに撫でています。
次郎は、なんとも言えない淋しい気持ちになりました。彼は寝転んだまま、じっと目を据えて父を見つめました。

すると、お民が言いました。

「まあ、あなたには呆れてしまいますわ」

「何が……」

「かりにも、自分の子が汚いなんて」

「汚いものは、汚いさ」

「それでも親としての愛情がおありなのですか」

「何を言っているんだ。それとこれとは話が違うだろう。馬鹿な」

「男の親というものは、だから困りますわ。やけに可愛がっているかと思うと、すぐその直後に子供の心を傷つけてしまうんですもの」

「つまらない理屈を言うな」

「あなたこそ、屁理屈ばかりおっしゃっているんじゃありませんか」

「いつ俺が屁理屈を言った」

「ついさっきも、形よりも気持ちが大切だなんておっしゃったくせに」

「それが屁理屈なのかい」

「屁理屈ですわ」

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