初級翻訳・次郎物語 第9話

下村 湖人

それなら、その声に応じてすぐに出ていけばいいはずなのに、そうもいきませんでした。母の言葉は、彼が素直に出ていくには少し強すぎたのです。母の声を聞くと、次郎はすぐさま座敷の方に背を向け、立木によりかかってしまいました。

「次郎ちゃん、父ちゃんが帰ったよっ」
恭一が彼を呼びました。
「父ちゃんが帰ったよっ」
俊三がそれを真似しました。
次郎は、みんなの視線が自分の背中に注がれているのを感じて、ますます動けなくなってしまいました。

「すぐあんな風なんですもの……全くどうしたらいいのか、私、わからなくなってしまいますわ」
「なあに、今日は初めてなものだから、気恥ずかしがっているんだよ」
「そんなしおらしい子なら、私ちっとも心配いたしませんけど、なかなかそうはいきませんわ」
「やはり家になじまないからさ。そのうち、おいおい良くなるだろう」
「そうでしょうかしら」
「何しろ、あれにとっては、この家はまるで他人の家も同然だろうからね」
「そりゃ、そうですけれど……でも、あんまりですもの。何かお浜に強く言い聞かされてきたんじゃないかと思いますの」
「まさか。……仮に言い聞かされたにしても、あんな子供にそううまく芝居が打てるもんじゃない」
「すると、あの子の性質なんでしょうか」
「性質ということもあるまいが、自然とああなるんだね、これまでの経緯からして」
「このままでいいのでしょうか」
「いいこともあるまいが、当分仕方がないさ」
「まあ、貴方はのんきですわ。私、一刻もじっとしていられない気がするんですのに」
「そんなにやきもきするから、なおいけないんだよ」
「では、どうすればいいんですの」
「つまり、教育しすぎないことだね」
「だって、私には放っておくなんてできませんわ。第一、あの子の将来を考えますと……」
「将来を考えるから、無理な教育をしない方がいいと言っているんだよ」
「でも……そりゃあ浅ましい真似をするんですよ。人が見ていない時に、飯櫃(めしびつ)に手を突っ込んで、ご飯を手づかみで食べたりして」
「何もかも、もうしばらく目をつぶるんだね。それよりも、差別待遇をしないように気をつけることだ」
「そんなご心配はいりませんわ」
「形の上だけでは、どうなり公平にやっていても、何しろこういうことは気持ちが大切だからね」
「気持ちと言いますと?」
「つまり、親としての自然の愛情さ」「まあ、あなた、そんなことを心配していらっしゃるの? 次郎だって、私のお腹を痛めて産んだ子ではありませんか」

「自分の子であっても、乳を与えて育てなかった子は親しみが薄いというじゃないか」

「私には、そんなことありませんわ。それは教育のない人の言うことでしょう」

「そうか……。ところで、お祖母さんはどうだね、次郎に対しては?」

「あの子を家に呼び戻すことさえ、あまり快く思っていらっしゃらなかったくらいですから……」

「女というものは、何と言っても感情的だからね」

「すると、あなたも私がお祖母さんと同じだと言いたいのですか?」

「お祖母さんとは、いくらか違うだろうが……」

「いくらか、ですって? あなたは私をそんなに信用していないのですか」

「そうむきになるなよ。あの子に聞えたら悪いだろう。それよりか、もう一度呼んでみたらどうだね」

「あなたのその、公平なお声で呼んでみてくださったら、どう?」

「…………」

次郎は全身の神経を耳に集中させて、二人の話を聞こうとしましたが、その大部分は聞き取れませんでした。仮に聞こえたとしても、その意味をはっきりと理解することはできなかったでしょう。しかし、彼はなぜか、父が自分に対して好意を寄せているような気がしてならなかったのです。父が今にも自分に声をかけてくれるのではないかと、ひそかに待っていましたが、それは叶いませんでした。

そこで彼はそっと向きを変えて、座敷の方をうかがいました。もうその時には、日はとっぷりと暮れており、向こうから自分の姿を見られる心配はありませんでした。父は黙り込んで酒を飲んでいます。母はそっぽを向いて、やけに団扇(うちわ)をパタパタとあおいでいます。

「恭一、お前、次郎を連れて来い」

だしぬけに、父の声が大きく響きました。恭一は気味悪そうに、しばらく植え込みの方をじっと見ていましたが、しぶしぶ立ち上がって次郎の方へやって来ました。

「父さんが呼んでるよ」

恭一は次郎に近づくと、用心深くその手首をつかんで引っ張りました。次郎は、恭一に手を握られるのをあまり心よくは思いませんでした。しかし、これ以上ぐずぐずしている勇気も持ち合わせていなかったので、引っ張られるままに縁側へと上がっていきました。お民は次郎の顔をじろりと見ただけで、何も言いませんでした。次郎はどこに座ればいいのかわからず、右の人差し指を口に突っ込みながら、しばらく柱の陰に立っていました。

「次郎、ここに座れ」

俊亮は自分のお膳の前を指しました。その声の調子は乱暴なものでした。しかし次郎の耳には、少しも不愉快には響きませんでした。彼はお民の目を避けるようにして、大回りをしてから、指された場所に座りました。

俊亮は盃を上げながら、三人の子を一通り見比べました。どう見ても、次郎の顔のつくりが一番あか抜けない感じがします。目つきや口元が、どこか猿に似ていました。おまけに肌の色は真っ黒で、頬っぺたには斜めに鼻水が乾いた跡さえ見えます。俊亮は一瞬、変な気分になりました。しかし、そのために次郎を嫌がるような気持ちには少しもなれませんでした。むしろ、かわいそうだという気持ちが、しみじみと胸を流れていくのを感じました。

彼はにこにこしながら、元気よく言いました。

「大きくなったなあ。体格はお前が一番だぞ。明日はお父さんが休みだから、大川に連れて行ってやろう。泳げるか?」

次郎は、それでも返事をしませんでした。彼はこれまで、学校の近くの沢で、桶につかまって泳いだ経験しかなかったのです。

「父さん、僕も行くよ!」

「僕も行く!」

恭一と俊三が、傍らで目を輝かせて言いました。しかし俊亮はそれには取り合わず、次郎の方ばかり見ながら続けました。

「次郎、どうだい、嫌か? 嫌だったら大川は止めてもいい。次郎は何が一番好きかな。明日は父さんは次郎の好きな通りにするんだから、何でも言ってみなさい」

みんなの視線が一斉に次郎の顔に集まりました。次郎はこの家に来てから、何かにつけてみんなに見つめられるのが何よりも嫌でしたが、この時ばかりは全く別の感じがしました。彼は父に答える前に、まず母と兄弟たちの顔を見回しました。そして、のびのびと育った子供のような自由さをもって、いかにもため息をつくような口調で言いました。

「僕、まだ本当には泳げないんだがなあ」

すると、恭一が言いました。

「大川には、浅いところもあるんだよ。僕たち、いつもそこでシジミを採るんだ」

「ほんとだい!」と、俊三が膝を乗り出しました。

「泳げなきゃ、父さんが泳がせてあげるよ。なあに、すぐに覚えるさ」と、俊亮が付け加えました。

お民はまだ黙っていました。

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