初級翻訳・河童の話 第7話

折口 信夫

「河童の頭には、立派な皿がちゃんとのっかっているんだよ」と答える人がとても多いのです。
ただ、その「皿」のあり方について詳しく聞いてみると、お皿が上を向いてぽっかりと口を開けているとする説もあれば、頭のてっぺんにピタッと伏せられていると言う説もあり、さらには上下二枚のお皿がガチャンと合わさって、まるで大切なお弁当の「蓋物(ふたもの)」のようになっている、と説く人たちまでいます。
この三番目の説は、頭のお皿から大切な水がこぼれ落ちるのを一生懸命防ごうとする意図が感じられてなんだかとても面白いですし、おそらく河童の伝説の中でも一番新しく生まれた形なのだろうと私は思っています。頭の皿と言えば、それが上を向いているのか、それとも伏せられているのか、そんなことは誰にとっても問題にならないほど、当たり前のこととして伝えられてきました。しかし、時代が下るにつれて、その形を正しく思い浮かべることができなくなったのでしょう。だからこそ、いろいろな説が生まれるようになったのです。

私は、皿はおそらく伏せられていたのではないかと思います。それも、これまで考えてきたような小さなものに限らず、もっと大きなものだったのかもしれません。そんな皿を、子供の頃からお嫁に行くまでずっと頭にかぶり続けていた姫君の物語があります。「鉢かづき姫」の物語です。この物語で「鉢」とされているのは、頭から顔までをすっぽりと覆っていたからでしょう。同じ作り話でも、多少なりとも理屈を通そうとして、皿よりも鉢のほうを選んで書き留めたのではないでしょうか。たとえそれほど大きくなくても、不思議な力がその皿の下に宝物を隠させたのです。鉢と呼ぼうが皿と呼ぼうが、大きな違いはありません。

鉢かづき姫が、お湯殿に奉公に出て、身分の高い男性と出会う場面には、禊(みそぎ)の役目を果たした古代の水の神女の面影があります。もっとも、お湯殿に仕えるという設定は他の物語にも見られますが、お湯殿で男性と出会うという点がこの物語の特別なところです。慶応義塾生の高瀬源一さんは、鉢かづき姫が入水して流されていく場所が、特に水との深い縁を示しているのではないかと指摘しました。鉢かづき姫の頭にかぶっていた鉢が割れると、中から財宝がたくさん出てきて、めでたく話が解決します。そう考えてみると、この姫君の物語もまた、水の神様の姿を受け継いでいると言えます。水の神様は、頭に皿を伏せていただいている。そしてその下には、数々の宝物が隠されている、と考えたのです。

皿が大きくなれば、それは「笠」になります。水の精霊である田の神様の像が、多く笠をかぶっているのも、こうした理由を多少含んでいるからかもしれません。大阪で育った私たちが子供の頃には、まだこんな遊び歌が残っていました。

頭の皿は、いつさら、むさら。
ななさら、やさら。
ここのさら、とさら。
とさらの上へ灸を据えて、
熱や 悲しや 金仏けい。
けいや。
……(中略)……

これにはもう何の意味もありませんが、皿を数えるような文句になっています。皿を数える歌としては、『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』に引用されている土佐の「ぜぜがこう」の文句が、とても暗示に富んでいます。

向こう河原で、土器焼ば(ヤキハ?)
いつさら、むさら、ななさら、やさら。
やさら目に遅れて、づでんどっさり。
それこそ 鬼よ。
蓑着て 笠着て来るものが鬼よ。

この歌を歌いながら、順番に手の甲を叩いていきます。歌の最後に手の甲を叩かれた人が、鬼になるのです。このように書き記して、これが世間で言われる「皿を数える化け物」の噂の出どころだろうと、面白い着眼点を示しています。

皿を数える歌に似たものは、古くは『今昔物語』にも見られます。女房が夫を捨てて、白鳥となって去る時に書き残した歌です。

あさもよい 紀の川ゆすり行く水の いつさや むさや。
いるさや むさや

下の句は、意味がよく分からないだけに、童謡や民謡のようにも思われます。ですが、「いつさや むさや」は、「いつさら むさら」と関係がありそうに思えます。皿を数える歌が、五皿、六皿から始まるらしいことを考え合わせると、特にそう思えてくるのです。時代の新旧によって、似たような民俗の先後を決めるのは、とりわけ民謡の場合には危険です。ですがこの歌では、『今昔物語』に面影を残しているほうが古く、皿を数える歌のほうがその系統から変化したものと考えてよいようです。

皿を数える歌が一つあるからといって、果たして「皿を数える妖怪」という考えが生まれたのでしょうか。少しもの足りない感じがします。尊敬する喜多村氏のために、その仮説を育ててみたいと思います。「いつさや むさや」の時代には、まだ皿の連想はほとんどなかったと見てよいでしょう。そうすれば、皿を数える妖怪とも、つながりがあるはずがありません。「さや」が「さら」となり、「いつ」が「五」、「む」が「六」という意味だと解釈できるようになると、「ななさら、やさら」と形が展開していくのは自然な流れでしょう。

皿を数える形が整うと、物を数える妖怪の連想が起きてきます。壱岐の本居(もとおり)に伝わる河童の話には、門に出して干してあった網の目を数えている者がいて、網を伏せてみると、それは河童だったという話があります。何のために網の目を数えていたのか、説明する人はいませんでしたが、妖怪には「目の多いものを恐れる」という習性があることが全国的に考えられているため、これを数え尽くせば、もう何事もなくその家に入ることができる、と河童は考えたのだと解釈したのでしょう。

物を数える妖怪に入れてよいものとしては、歌や経文を繰り返し読んだドクロの話などもあります。物を数える怪異がここまで進んでくると、皿を数える歌と相互に作用して変化していくのです。皿を数えるのに最も適していたのが「河童」でした。これと結びつけて、井戸の中から皿を数える声が聞こえるなどと言い出したのだと思います。いずれにせよ、田舎で起きた怪談でしょうが、だんだんと河童の話から離れて、若い女が切り込まれて井戸に投げ込まれたという話が至る所に広がりました。河童が、若い女に取って代わられる理由というものがあるのです。水の神様へのいけにえとして、若い娘さんが田んぼの中に生きたまま埋められたという物語や、それが形を変えて「一番めの早乙女(さおとめ)」を泥田の中に深く押し倒すという行事があります。
また、水に関係する土木工事には、女性のいけにえを捧げたという言い伝えが多く残っています。
しかしこれは、実際にはいけにえなどではありませんでした。
水の神様のお嫁さんという名目で、選ばれた娘さんが神様にお仕えしに行ったという古い風習が、後になってゆがめられてしまったものなのです。
田んぼや海、川のいけにえとなった娘さんの伝説が入り込んでくると、切り刻まれてしまうのは若い女性へと変わりました。
皿を数える原因は、お皿を一枚割ってしまったか、なくしてしまったからだと説明されます。
ですが、お皿を割ったからといって、必ずしも何度も何度も皿の数を数えるわけではありません。

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