初級翻訳・海底都市 第16話

海底都市

君のようなエトランジェ(異境人)には言えないのだ」
 博士は、その言葉が終わるとともに立ち上がって、両の肩をぶるぶると震わせた。
 僕の好奇心は火柱のように燃え上がったけれど、博士の沈痛な姿を見ると、重ねて問うのは気の毒になり、「まあまあ」と自分の心を押さえつけた。
 しかし、一体なんであろうか。この完全文明理想郷を脅かすところの、暗い問題とは。暗い問題があるということすら、僕には不審でならないのだが……。

 僕はそれから間もなく、博士と別れた。別れる前にカビ博士は、僕の合法的滞留を政府に対して、あらゆる手段によって請願することを誓ってくれた。
 タクマ少年が待っていてくれたので、僕は少年と連れだって考古学教室を出た。
「どうです。疲れましたか」
 少年は僕に聞いてくれた。
「疲れはしないけれど、標本になって閉じ込められていたので、気が詰まったよ。何か気持ちがからりとするようなことはないだろうかね」
「ありますよ、いくらでも。本当はお客さんは、これから食事をしてそれから睡眠をとるといいんですが、その前に、喜劇でも見物しましょうか」
「喜劇だって? それはいい。ぜひそこへ案内してくれたまえ」
 僕とタクマ少年は、動く歩道を利用し、第十八歓楽街のクラゲ座へ行った。
 入場してみて、僕はやっぱり驚かされた。素晴らしい劇場だと言っても、僕がこれまで知っている、座席のきちんと並んだ大劇場を拡大したような素晴らしさとは違う。場内は、森かげの草原のようであった。そこに掛け心地のいい椅子が、勝手に放り出してあるんだ。客はそれを好きなところへ移して座を決めればいい。テーブルを持ってくれば、軽い飲み物や喫煙に都合がいい。舞台は明るく、近くなく、遠くない距離にある。いい音楽。素敵な俳優たち。
 出しものは三つ。「タンポポはどこへ飛んで行きたいか」「火星人の引越し騒ぎ」、そして「クレオパトラの蒸留」と、番組に出ていた。
 今、舞台は「火星人の引越し騒ぎ」が演じられていて、陽気な笑いが続いていた。客席は、朧月夜(おぼろづきよ)の森かげほどの弱い照明が忍び込んでくる程度であるから、隣の席の客がどんな顔をしているのか判りかねた。その客たちは、熱心に舞台を見ているわけではなく、盛んにコップの音をさせたり、ぺちゃくちゃしゃべったり、おならをしたりするのであった。
 僕には勝手の違うこと、いや呆れることばかりであった。それでも僕は、タクマ少年と並んでおとなしく見物を続けた。
 そのうちに眠くなって、とろとろんとしていると、かん高い女の声が耳に飛び込んできたので、はっと目覚めた。隣の席で、なにか言い合っているのだった。
「――いいえ違うわ、わたくしは、改造以前の人間といえども、海に棲息し得る特質を具備していると思うの。それは、あの人類は、海から陸へあがってから八千万年を経ているでしょうが、それでもなおかつ人類は、その発生の故郷である海中生活に耐える器官や本能を残して持っていると断定しますわ」
「それは一種の感傷主義だ。もはや人類は、そういう能力を全然失っている。海中生活に耐える器官は痕跡程度残っているかもしらんが、海中棲息の本能なんど有るもんですか」
 反対するのは男の声だ。この男女二人の声に、僕はいささか聞き覚えがあった。【平衡器官】

クラゲ座の劇場で、僕の席の後ろから聞こえてくる、劇の内容とは無関係に熱心に人類学を論じ合っている若い男女の声。
それは、昼間に考古学教室で見かけた、熱心な学生のダリアさんとトビ君の声に違いなかった。
二人は僕がすぐ前に座っていることにも気づかないほど、夢中になって議論を戦わせていた。

「いや、君のその論理は、数字や根拠が全く足りていないよ。退化がある一定のラインを超えると、器官は完全に機能を失うんだ。だから、最初からそんな器官は存在しなかったと考えていい。例えば、僕たちに尾てい骨があるからといって、尻尾を振ってみたいなんて欲望を抱いたことは一度もないだろう、ダリア君」

「それは暴論というものですわ。尾てい骨の話と、内耳にある平衡器官の話を一緒にしてはいけません。尾てい骨は、今は全く動きませんもの。人間には尻尾なんてぶら下がっていないでしょう? 動かない器官に意味はありません。でも、平衡器官の方は現在もちゃんと働いています。人類が遠い昔に海の中で暮らしていたときと同じように、今の私たちもその器官を使ってバランスをとっているんですから」

「違うよ、ダリア君。確かに平衡器官は平衡器官だけど、今はもう海の中じゃない。空気中での陸上生活がすべてなんだ。人類の祖先が海から陸へ上がってから何十万年も経っている。その長い陸上生活の中で、平衡器官は退化してしまい、海中生活用の道具としてはもう役に立たないはずなんだ。そこを考えなきゃね、美しいお嬢さん」

「まあ。まあまあまあ。議論に勝ったつもりで、私をからかっているのね」

「からかってなんていないさ。美しいから美しいと言ったまでだ。急にあなたを素敵だと感じたから、素直に口に出したんだよ。それに、もうその話は出し尽くした感があるから、ここらで終わりにしよう」

「ごまかしているのね。トビ君、あなたこそもう話すネタが尽きたんでしょう。きっとそうよ。でも私はね、これから本格的な実証実験に移るの。実験による証明ほど確かなものはないわ。私は誰をも納得させてみせる。私の論文は、その時になったら、誰よりも鮮やかに光り輝くはずよ。ああ、その時のことを想像するだけで胸が高鳴るわ!」

「うわっ、とんでもない。考古人類学は詩じゃないんだ。君みたいに夢や感動ばかり追いかけていては、自然科学の正しい答えなんて出ないよ」

「ああ、なんとでもおっしゃい! 私には、自信満々な研究計画があるんですから。本当にお気の毒さま、頭がタングステン鋼みたいに硬いトビタロ君!」

二人の仲が険悪になってきたので、僕は見るに見かねて席を立ち、二人の間に顔を出した。
「お二人とも、大変ご熱心に討論されているようですが、僕も仲間に入れていただいて、一緒に乾杯しませんか?」
僕は給仕を呼んでお酒を注文した。
ダリアさんとトビ君は、僕が突然現れたので顔を見合わせ、すっかり黙り込んでしまった。
そして給仕がお酒を持ってくると、二人はまるで席から弾き出されるように立ち上がった。僕が声をかけるのも聞かず、二人はどんどん帰ってしまった。
僕は、気まずい雰囲気の中に一人取り残されてしまった。何かが二人の気分を害したに違いない。しかし、それが何なのか、僕にはさっぱり見当がつかなかった。同伴していたタクマ少年も「分かりません」と首をかしげるばかり。
なんだか嫌な気分だ。劇場が終わると、僕はタクマ少年に送られてホテルへ戻った。

部屋で一人になり、ベッドに横になった。すぐに寝つくことはできなかった。昼間から続いた刺激的な出来事を次から次へと思い返していると、目がますます冴えてくる。
それにしても、辻ヶ谷君が僕をタイムマシンで呼び戻してくれないことが不思議でもあり、また、ある意味ありがたくもあった。確かに「二十年後の世界を約一時間散歩してくる」という約束で僕はここへ来たのだ。彼は今、何をしているのだろう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました