初級翻訳・海豹と雲 第11話

北原 白秋

えいや、ほう、ぽん、えいや、こころばかりで敲つのやら。
花は白菊、ませの菊、にほひばかりの秋じややら。鵜匠

長良川の鵜匠の家系、山下幹司君へ。

篝火(かがりび)が朱色に燃えあがる、
君こそは、誇り高き鵜匠だ。
濡れてしずくを滴らせる腰蓑と、
古風な折烏帽子(おりえぼし)姿。
すばやく手際よくさばく、
檜(ひのき)の縄の、はらはらと揺れるさま。

時の流れよ、流れる川の水が、
かぎりない灯火(ともしび)に映えて輝く。

鮎を追う鵜たちが、次々と
水面に影を映してゆく。
「ほう、ほう」と呼ぶその声は、
誰のものでもなく、ただ夜が更けるのを惜しんでいるようだ。

鷹匠

わたしは鷹匠。
心は微塵も揺らがない。
拳(こぶし)に据えた隼(はやぶさ)を、じっと見つめる。
目をそらすな。
静かに。
あの一点を狙い定めろ。
さて、さらさらと松の風が吹き、
はらはらと青い松葉が落ちる。
時は今だ。
驚破(きょうは)! 隼よ、
一生をかけるつもりで飛び立て、と颯(さっ)と放した。

胡蝶

飛びながら、自分が飛んでいることさえ忘れているのか。
ただ飛ぶことそのものが、秋の姿だ。
舞う蝶たちは、このごろどれも小さく、みな黄色い。

翁

椎(しい)の木のかげに座っている、
あの白い顔の翁は、
どなただろうか。
ああ、なにか微笑んでいるような、
月の光が差し込んでいる。

冬の日

鳥居清忠が描いた絵のように。

立屏風は鮮やかな朱色。
立膝で細い筆を走らせ、
春の柳を描く女。
それを寝転がって眺める男の髷(まげ)。
墨をすっている少女、日向の縁側。
手水鉢(ちょうずばち)にはおかめ笹。
冬の日の穏やかさが満ちているようで、
まだ薄墨のような時雨(しぐれ)の気配もある。
手持ち無沙汰な、真実の、
ええ、
心ゆくまで退屈な小半日(こはんにち)でございます。

草仮名

銀を揉み込んだ紙が消えて、つややかなので、
墨の色がよく映るようだ。
時雨の降る月、こんな夜は、
草仮名(くさかな)を綴るのが心安らぐ。

春朝

色とりどりの鳥たちよ、
喜べ、この朝を。
ふくらみ始めた花の、
色が聞こえてくるようだ。

ぢいさまばあさま

おじいさまとおばあさまが、
ある日、林へ行かれた。
ホオジロは鳴き、風はさわさわと通り過ぎる。
なにかといえば、花のかおりがする。
おじいさまや。
おばあどのや。
ああ、おじいさまや。
おばあどのや。
春はどうにも、のびやかでいい。
老木の藤の花房までが、
ゆらゆらと揺れていたことよ。

花楮

黄色い鳥が眠る花楮(はなこうぞ)、
月は翁の面(おもて)の上にある。
鼓を打って打って、面白く、
春はふたたび、花楮に宿る。

水郷の早春

朝靄(あさもや)の中

靄が深く立ち込める朝、子供たちが
小舟を漕いでいる。
ああ、二人だ。
ここは潮来(いたこ)の町外れ、
沼から沼へとつながる水路だ。
ほう、むぐっちょ(カイツブリ)が鳴いている。
水面が明るくなってくる。
子供たちは音を聞いている。一人は舳先(へさき)に、
一人は小さな櫂(かい)を漕いでいる。
うすら寒くても、心地よい湿り気だ。
どこかに日の光も差している。
柳の枝も青さを増した。
低い田んぼも耕されてきた。
「ほうつ」と、どこかで火を燃やしている。
誰かが葦の根を焼いているのだ。
風が吹いた。いや、土の香りが通り過ぎた。
おお、もう春が動き出している。
彼らは一緒に、ぐっと舟にのめり込んだ。
とても大きなタンポポが咲いている。
靄の深い朝、むぐっちょが鳴き、
子供たちは小舟でじゃれ合っている。

沼べり

わたしは眺めてゆく、沼べりの葦の寂れた様子を。
刈り残された、わずかな穂先を。
わたしの小舟は帆を張ったけれど、また、
櫓(ろ)に替え、棹(さお)に替えたりした。
雨といっても、小糠(こぬか)のようなしめり気で、
風といっても、冬とはちがう。
捨て火も水際を伝えば、
ざんざらとした真菰(まこも)も青み始めている。
ああ、旅だ。
時には心も引き締まるけれど、また、
笑いに替え、親しみに替えたりして。

牛

うつくしさ、さびしさ、
ああ、この静けさ。
小舟は行く、沼の面(おもて)を。
夕凪(ゆうなぎ)の安らかな、乳金色(にゅうこんしょく)の世界。
小舟にはおっとりと、赤い雌牛が、
(なんという良い風景だろう)
おとなしく乗せられている。
うつぶせになった、明るい姿。
仲睦まじさ、飾りのなさ、
ああ、この静けさ。
娘は棹を上げ、また差し継ぎ、
親たちはかがんでいる、農作業の心地よい疲れで。
めったにない良い日和だ。あるかないか、
葦の穂先に微塵(みじん)が光って、
沼の眺めが広がれば、
むぐっちょが鳴く。
何かの芽吹きに息が詰まる。
もの悲しさ、温かさ、
ああ、この静けさ。
春浅い大きな夕日。
遥かな、寂れた藁屋根、立ち枯れた楊(やなぎ)。
すべては良い光の中にあり、雌牛の
安らかな深い眼つきに宿っている。
ああ、この親しさ、ありがたさ、
すべては明るい祈りの中にある。

水村の春

一
水車が回る樋口(ひぐち)に
障子を開ける子供がいる。
春はまだ浅いのか、芽吹いた麦に
まだら雪が光っている。

二
春雨が煙る小川に
板橋を渡す里がある。
この田、あの田の下萌え、
簑(みの)と笠をつけて、もう鋤(す)き始めている。

三
ひとむら萌え出したナズナを、
朝出て食む雌の牛。
沼の田の辺りは、わずかに
降り続く雨の匂いがする。

四
蛙(かわず)が鳴くのは「ころころ」、
田螺(たにし)が鳴くのは「ころろ」よ。
ころころ、ころろ、ころころ、
萌え出でよ、春の田んぼ。

五
蛙が鳴くよ、沖の田に。
芽吹いた柳もなびくよ。
誰だろうか、小糠雨(こぬかあめ)の中に、
今朝あかあかと火を焚いているのは。

六
春はまだ浅い水田の
セリは馬に食われてしまった。
行ったり来たり、鋤き返したりして、
一日は雨の中に暮れていく。

七
二本並んで高い葉楊(はこやなぎ)、
鍋底をこする舟の子供、
つんぬけ土間の藁屋根の家は、
燕(つばめ)が飛ぶのに任せている。八

夜明けの靄(もや)の中で目が覚めて、
向こうを渡っていくのは雁(かり)だろうか、それとも鵠(くぐい/白鳥)だろうか。
さあ、舟を漕ぎ出そう、作業の舟を。
沖の田んぼのあたりは、もう晴れてきているようだ。

九

作業用の舟に積み込むものは、
すき、くわ、そして黒い雌の牛。
朝の靄の中を、棹(さお)をさして進む
娘の赤い細帯が揺れている。

十

せんだんの実がなっているのも、どこか寂しげだ。
むしろを編む藁(わら)の家では、
一日中、仕事の音が響いて、
一日中、雨が降り続いている。

十一

藁をすいている子供の瞳を見ていると、
沼の光が心にしみてくるようだ。
時々鳴いておくれ、カイツブリよ。
昼間の月も、空を渡っていく。

十二

前を飛んでいく蝶のつばさに、
土の湿り気が映り込んでいる。
本当に春というものは、田んぼの端から、
野道の方まで、香りを広げていくのだ。

金粉の靄

おだやかな冬

枯れ果てて、おだやかな冬の眺め。
日当たりが柔らかい冬。
冬はまだ、谷の向こう側にある。

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