君は、一度はそこまで突き進んでしまう人なんだ。そこを通り抜けなければいけない運命の人なんだよ。君の愛情には、底がないからね。いや、豊かな感性と言うべきかな。それは本当にすごいことなんだ。僕はふだん、どんな女の人に対しても適当なあいさつをして、それでうまくやり過ごしているし、それがちょうどいいと思っている。だけど、君にだけはそれができないんだ。君は僕の心を見抜いてしまうからね。油断ができないんだ。どうしてなんだろうね。そんな特別な人は、他にいるはずがないのに」
「いいえ、そんなことはありません。女の人はね……」さちよは、すすめられたお茶碗のビールをごくりと飲みました。「みんなとても賢いんですよ。それこそ、なんでも知っているんです。ちゃんと分かっています。自分が適当にあしらわれていることだって、なんだって、全部知っているんです。知っていながら、知らないふりをして、子どものように、あるいは動物のようにおとなしく振る舞っているだけなんです。だって、そのほうがトクなんですもの。男の人って、本当に素直ですね。何から何まで全部バレバレなのに、それでも『女の人をうまくダマせているぞ』と思っているんですから。まるで、爪をかくすことができないワンちゃんみたいですね」「いつだったかしら。私が新橋(しんばし)駅のホームで、秋の夜遅くに電車を待っていたときのことよ。とってもスマートな犬が――フォックステリアっていう種類かしら――私の前をタタタッと走っていって、私、それを見送っていたら、なぜか涙が出てきちゃったの。
カチ、カチ、カチ、カチって、歩くたびに爪の音が聞こえるの。ああ、犬は爪を隠すことができないんだなって思ったら、その正直なところがなんだか愛おしく思えてきて……。男の人って、まさにあの犬みたいなものだなって思ったら、もっと悲しくなって、泣いちゃったの。
お酒に酔っていたのね。
私って、本当にバカだわ。
どうしてこんなに、男の人の肩ばかり持っちゃうのかしら。
男の人って、なんだか弱い生き物のように思えるの。
私、できることなら、自分の体を百個にも千個にも増やして、たくさんの男の人たちを守ってあげたいとさえ思うわ。
だって男の人って、いつもカッコつけてばかりいて、なんだかかわいそうなんですもの。
本当の『女らしさ』っていうのはね、私はむしろ、男の人を守ってあげる強さのことじゃないかって思うの。
私のお父さんはね、『女の子は優しくありなさい』って私に教えてくれたまま、いなくなっちゃったけれど、その優しさっていうのはね……」
さちよはそこまで言いかけて、何かに驚いたシカのように、ふっと顔を上げて耳をすましました。
「誰か来るわ!
私を隠して。
ちょっとの間だけでいいから!」
さちよはニッと笑うと、後ろにある押し入れのふすまを開け、座った姿勢のままするすると中に体を滑り込ませました。
「さあさあ、あなたは、お仕事に戻ってね」
「よしてくれよ。それも女の子の『かくれんぼ』のポーズかい?」
歴史的さんは、いかにも頭の良さそうな笑顔を浮かべました。
「この部屋にやってくる足音じゃないよ。まあいいから、そんなみっともない真似はやめなさい。ゆっくり話そうじゃないか」
彼は姿勢を正して座り直しました。
痩せていて小柄な男の人でしたが、黒い金属フレームのメガネの奥にある大きな目や、すっと通った高い鼻が、その顔立ちに上品な影をつくり出していて、いかにも頭が良くて育ちが良さそうな、気品のある雰囲気が漂っていました。
「ねえ、あなた、お金はある?」
押し入れの前にぼんやりと立ったまま、さちよはぽつりとそんなことを言いました。
「私、もう、嫌になっちゃった。あなたを相手にこんな山奥で話をしていると、死にそうになるくらい東京が恋しくなってきちゃう。あなたのせいよ。私の愛情がどうだとか、そんなキザな言葉で私の心をかき乱すから、せっかくうまく忘れかけていたのに……。自分の不幸なこと、汚れてしまったこと、何の力もないこと、全部を一度に思い出しちゃったじゃない。東京は、いいところよね。私よりもっと不幸な人や、もっと恥ずかしい思いをしている人たちが、お互いに説教なんてしないで、笑いながら生きているんだもの。私、まだ十九歳よ。すべてをあきらめて、冷たい心の中だけで生きていくなんて、とてもできないわ」
「ここから逃げ出すつもりだね」
「でも、私、お金がないの」
三木さんは、少し意地悪そうにニヤリと笑うと、そのままうつむいて考え込みました。
それは、わざとらしく大げさに見えるほど、長い間考え込んでいる様子でした。
そして、急に顔を上げて言いました。
「十円あげよう」
まるで怒っているかのような強い口調でした。
「君は、本当にバカだな。僕は、君のことをものすごく大切に、気高く愛してきたんだ。君はそれを分かっていない。僕にはね、君がちょっとした足音に怯えて、こそこそと押し入れに隠れるような、そんな惨めな姿を、黙って見ていられないんだよ。今の君にお金を渡して逃がしたりしたら、僕はひどい悪者になってしまうかもしれない。けれど、これは僕の心の底から湧き上がる素直な気持ちなんだ。僕は、自分の気持ちに従うよ。この先、どうなってしまうかなんて僕には分からない。神様だけが知っていることだ。生きている者には、自由に生きる権利がある。君の好きなようにするがいい。僕たちに罪はないんだから」
「ありがとう」
さちよはクスクスと笑いました。
「あなたって、本当に嘘つきね。それこそ歴史的な大ウソつきだわ。ごめんなさい。じゃあ、また後でね」
三木朝太郎は、苦しそうに、でも少し嬉しそうに笑いました。
☆
東京では、昭和六年の元旦(お正月の一日)に、雪が降りました。
夜が明ける前から、雪がちらちらと降り始め、お昼ごろまでずっと降り続いていました。
お昼を少し過ぎたころ、戸山が原(とやまがはら)という場所にある、たくさんの木が生い茂る林の影に、コートの襟を立て、帽子もかぶらずに、タバコを吸いながらイライラと歩き回っている一人の男の姿がありました。
この男は、どうやら善光寺助七(ぜんこうじ すけしち)のようです。
すると、木立ちの影から、ひょっこりともう一人、和服の上に羽織るコート(二重まわし)を着た小柄な男が現れました。
三木朝太郎です。
「バカなやつだ。もう来ているのか」
三木は少しお酒に酔っているようでした。
「本当に、やる気なのかい?」
助七は何も答えず、タバコを投げ捨てて、着ていたコートを脱ぎ捨てました。
「待て、待て!」
三木は眉をひそめました。
「なんて乱暴なやつだ。君は一体、さちよをどうしようというんだ? ただ『力ずくでも奪い取ってやる、戸山が原へ来い、痛い目に遭わせてやる』というだけなら、僕は君の相手なんかできないよ」
しかし助七は何も言わず、いきなり三木に殴りかかりました。
「やめろ!」
三木はあわてて飛び退きました。
「頭に血が上っているな。いいから、僕の話をよく聞け! 昨日の夜は、僕も悪かったよ。余計なことを言った」
実は昨日の夜、二人は新宿のバーで一緒にお酒を飲んでいました。
もともと知り合い同士だったのです。
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