初級翻訳・火の鳥 第2話

太宰 治

人間なんて、そんなにたくさんのことを、あれもこれも器用にこなせるわけじゃない。我慢して、我慢して、謙虚に真面目に生きていきさえすれば、この世は悪い人ばかりじゃない(渡る世間に鬼はない)んだ。そのことを、ちゃんと信じて生きていくんだよ」

「今日の乙彦さんは、なんだか……」
青年は、きれいな顔をくしゃっとさせて、泣きそうな顔になりながら言いました。
「おかしなことを言いますね」

「ううん」
と、乙彦も子供のように首を横に振って言いました。
「これでいいんだ。僕の真ネなんか、絶対にしちゃいけないよ。君は、自分自身のプライドをもっと高く持って生きていい人なんだ。君には、その価値が十分にあるんだからね」

十九歳になったばかりのさちよは、ていねいな仕草で、青年のグラスにたっぷりとお酒を注いであげました。

「よし、じゃあ行こうか。これで、お別れだ」

そのお店の前で、三人は別れました。
青年はズボンのポケットに両手を突っ込み、冷たい秋の風が吹く中、寂しそうな様子でずっと二人を見送っていました。

二人きりになると、さちよが言いました。
「あなた、死ぬつもりね」

「わかるかい?」
と、乙彦はかすかに微笑みました。

「ええ。私って本当に不幸だわ」
さちよは思いました。やっと大好きな人に出会えたと思ったら、もうその人は、この世界からいなくなろうとしているのですから。
「私、わがままなことを言ってもいい?」

「なんだい?」

「お願いだから、生きていてくれない? 私、あなたのためなら何でもするわ。どんなに苦しいことだって耐えてみせるから」

「それは、だめなんだよ」

「そうなのね」
さちよは心に決めました。(この人と一緒に死のう。私はこの人と出会って、たった一晩だけでも、最高の幸せを知ることができたのだから)
「私、おかしなことを言っちゃったわね。私のこと、嫌いになった?」

「いや、尊敬するよ」
と乙彦は静かに答えました。その目には、涙がキラリと光っていました。

その夜、二人は帝国ホテルの部屋で、一緒に薬を飲みました。
二人は、ソファにきちんとお行儀よく並んで座ったまま、静かに眠りにつきました。

夜遅く、あの四十歳くらいのボーイさんが部屋に入り、それを見つけました。彼は、最初からこうなるかもしれないと予感していたのです。
ボーイさんは慌てず、静かに部屋を出て、ホテルの支配人をそっと起こしに行きました。

すべては、他のお客さんに気づかれないよう、静かに行われました。ホテル全体は、朝が来るまで何事もなかったかのように、静かに眠り続けていました。

須々木乙彦は、そのまま帰らぬ人となりました。
しかし、女の子(さちよ)のほうは、命を取り留め、生き残りました。

☆

高野さちよは、東北地方(奥羽)の深い山の中で生まれました。
彼女の家系には、立派なご先祖さまたちの血が流れていました。
ひいおじいさんは、お医者さんでした。
おじいさんは、歴史的に有名な「白虎隊」のメンバーの一人で、とても若い頃に戦いで亡くなっていました。そのおじいさんの妹が、家を継ぐことになりました。それが、さちよのお母さんです。お母さんは、とてもお上品で、いつもクールで表情を変えない女性でした。

そこへ、お婿さん(養子)を迎えました。
そのお父さんは、女学校で美術(図画)を教える先生でした。お父さんは、山を越えて約三十二キロメートル(八里)も離れた隣の町にある、日本酒を作る家(造り酒屋)の次男坊でした。体も心も、少し弱くて優しい人でした。

高野の家には、少しばかりの土地がありました。だから、お父さんが学校の先生をやめてしまっても、十分に暮らしていくことができました。お父さんは、猟犬を連れて、猟銃を肩に担ぎ、毎日山の中を歩き回っていました。

「素晴らしい絵を描きたい」
「一流の画家になりたい」
そんな強いあこがれが胸の中で燃え上がっていましたが、気が弱いお父さんは、それを口に出さずにじっと黙っていました。

高野さちよは、山の霧や、声が響き渡る「やまびこ(木霊)」に囲まれて、すくすくと育ちました。谷間に立ち込める深い霧の中を、探検するように歩くのが大好きでした。
「海のいちばん深い底って、きっとこんな風に静かで不思議な世界なんだろうな」と、さちよは想像していました。

さちよが小学校を卒業した年、お父さんは、再び隣の町の女学校の先生として働き始めました。さちよを学校に通わせるための、学費を稼ぐためでした。
さちよは、お父さんが働いているその女学校のテストを受けて、見事に合格しました。

最初は、お父さんと二人で、お父さんの実家に泊めてもらい、毎朝一緒に仲良く学校へ通っていました。しかし、「先生と生徒が毎日一緒に同じ家から通うなんて、学校の先生として世間の目が気になるんじゃないか?」とお父さんの実家の人たちに言われてしまいました。気が弱いお父さんは「確かにその通りだね」とすぐに納得してしまい、さちよは学校の寮に入ることになってしまいました。

お母さんは、たった一人で山の中の家に残り、暮らしていました。

女学校の生徒たちから、さちよのお父さんは「ウリ(瓜)」というあだ名で呼ばれていて、あまり尊敬されていませんでした。
そして、さちよは「おナス(茄子)」と呼ばれていました。
「ウリのつるに実ったナスビ」という、ちょっとからかわれた意味のあだ名でした。
実際、さちよは日焼けして肌の色が黒っぽかったのです。さちよは、自分のことを「なんてかわいくない女の子なんだろう」と思い込んでいました。
「私は見た目がよくないから、そのぶん心だけでも優しく、お行儀よくしなくちゃ!」と、いつも一生懸命に努力していました。

学校では、いつもクラスのリーダー(学級委員)を務めていました。
絵の時間をのぞけば、テストの成績はいつも九十点以上の素晴らしい点数ばかりでした。
でも、絵の点数だけは六十点や、たまに七十三点といった、ちょっと低めの点数でした。
それは、気の弱いお父さんがつけた点数でした。

さちよが女学校の四年生になった秋のこと、お父さんはさちよが描いたコスモスの絵に、めずらしく「よくできました(優)」のハンコをくれました。
さちよは、「どうしてだろう?」と不思議に思いました。
画用紙を裏返してみると、そこにはお父さんの優しい文字で、「女の子はいつも優しくいなさい。人間は、弱いものをいじめてはいけないよ」と、すみに小さく書かれていたのです。
さちよは、はっと胸をつかれました。

そしてそのあとすぐ、お父さんはまるで煙のように、どこかへ消えて行ってしまいました。
「絵の勉強をするために、東京へ逃げ出したんだ」「お母さんとケンカでもしたのかな」「いや、お父さんの実家とお母さんの仲が悪かったせいだ」「いやいや、お父さんには他に好きな人ができたんだ」など、まわりの人たちのひそひそ話が、さちよの耳にたくさん入ってきました。

それからまもなく、お母さんが自分で命を絶ってしまいました。
お父さんが残していった猟銃を使って、一瞬のうちに亡くなってしまったのです。
その傷あとは、まるでパッと割れたザクロの実のようでした。

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