そのまま、高須を入り口から連れ出し、廊下の隅まで何も言わずにグイグイと押し戻したのです。
「まあ、ごめんなさいね」
と言ったのは、ほっそりとした姿の女性でした。目が大きくて、鼻筋が通った、どこか寂しげな顔立ちをしています。黒いドレスがとてもよく似合っていました。
「さちよに会わせたくなかったの。あの子、あなたのことをすごく気にしているから。せっかく舞台の評判もいいんだし、お願い、今はあの子をそっとしておいてあげて。あの子、今、一生懸命なの。本当はすごく辛いのよ。私にはそれが分かるの。……あら、あなたは私のことを知らないわね」
彼女は顔を赤くして言いました。
「ごめんなさい。あなた、高須さんでしょう? そうよね? 私、ひと目見て、ハッとしたの。会うのは初めてだけど、すぐに分かったわ。あなたは須々木乙彦(すすき・おとひこ)さんの親戚でしょう。どう? 私、なんでも知っているでしょう?」
彼女は数枝さんでした。お芝居が始まってからの二、三日、心配で居ても立ってもいられず、今日は自分のお店を休んで楽屋に来ていたのです。
☆
その日の夜のこと。もし事情を知っている人が見たら、ギョッとしたことでしょう。まるで須々木乙彦さんが生き返ったかのようだったからです。乙彦さんが生きて、ウイスキーを飲んでいる……そう見えてもおかしくありませんでした。
去年の秋の終わり、須々木乙彦さんは銀座の裏通りにあるこのバーに、ふらりと立ち寄りました。そして、今と同じこのソファに腰を下ろして、当時十九歳だったさちよと、雨の話をしたのです。
あの時と同じように、少し前かがみの姿勢でソファに深く座り、今、高須隆哉は八重田数枝さんとウイスキーを飲みながら、ひそひそとお話をしています。
ソファのそばには、ヤツデという植物の鉢植えがありました。昔のまま、大きな葉を広げています。その葉っぱには、かつて乙彦さんが何気なく爪でちぎってしまった跡まで、そのまま残っているのでした。部屋の薄暗い明かりは、ヤツデの大きな葉にさえぎられていました。高須さんの顔は、まるで三日月の光を浴びた時のように、ぼんやりと輪郭(りんかく)が見えるだけです。目の下や頬(ほお)には真っ黒い影ができて、げっそりと痩せ、恐ろしいほど年老いて見えました。数枝さんはお話をしながら、ときどきチラリと高須さんの顔を横目で見ました。全くの別人だと分かってはいるのですが、なんだか嫌な気持ちになります。
そう、死んでしまった乙彦(おとひこ)さんに、あまりにも似ていたのです。
数枝さんは、あの夜ここで乙彦さんと一緒にお酒を飲んだので、彼のことをよく知っていました。乙彦さんは肌も荒れていて、顔も少し変わった形をしていました。高須さんのような美男子ではありません。
でも、今のこの薄暗いバーの中でふと見ると、やっぱり似ているのです。数枝さんは、「血のつながり」というものが、なんだか気味が悪くて、嫌なものに思えてなりませんでした。
高須さんは、まだ何も気づいていません。数枝さんに無理やり劇場から連れ出され、ちょっとしたいたずら心でこのお店に連れてこられただけだと思っています。
この薄暗いバーは、かつて乙彦さんとさちよが不思議な出会いをした場所でした。そして今、高須さんが腰かけているこの灰色のソファは、追い詰められて、追い詰められて、この世界のどこにも居場所がなかった乙彦さんが最後に見つけた、たった一つの「鳥の巣」や「キツネの穴」のような、安らぎの椅子だったのです。高須さんは、そんなことはちっとも知りませんでした。
高須さんは静かに酔っ払って、こう言いました。
「さちよを田舎へ帰せばいいんだ。女優なんて、あんなに派手なことをさせちゃいけない。絶対に帰らせるべきなんだ」
「でも……」
数枝さんは言いよどみましたが、言葉を続けました。
「いいえ、酔っ払ってイジワルを言っているわけじゃないのよ。ごめんなさいね。でも、男の人って、どうして女の人のことになると、急に責任を取りたがるのかしら。どうして、みんな分かったようなお説教ばかりしたがるのかしら。あなたは、さちよがこれまでどんなに苦しい生活を、必死に切り抜けて生きてきたか、知っているの? さちよだってもう大人よ。子供じゃないわ。放っておいても大丈夫。私だって最初はあの子に腹が立ったし、女優なんてとんでもない、あなたと同じように田舎へ帰るのが一番安心だと思っていたわ」
「でも、それは私の間違いだった。だって、さちよが田舎へ帰って都合がいいのは、私たちの方なのよ。あの子にとっては、ちっとも幸せじゃない。あなただってそうよ。やっぱり、どこかズルいのよ。自分のことしか考えない、ケチでワガママな気持ちが、心のどこかにちゃんとあるのよ。あなたが勝手に責任を感じて、イライラして苦しくなって、今度はその責任を遠くにいる誰かに押し付けて、自分だけスッキリした顔をしたいだけでしょ。そうなのよ」
そう言いながらも、数枝さんは少し気弱になって、高須さんの片手をそっと握って顔色をうかがいました。
「ごめんなさいね、私、失礼なことばかり言って」
そう言って、数枝さんはウイスキーをサッと飲み干しました。
「でもね。あの子を今さら田舎へ帰すなんて、やっぱり残酷よ。よくそんなことが言えるわね。あの子を田舎へ帰しちゃダメ。あなたは、あの子が去年どんなことをしたか知っているでしょ? どんなに笑われたか、知っているわね。東京はみんな忙しいから、もうそんなこと忘れたような顔をしてくれるけど、田舎はうるさいわよ。あの子、きっと部屋に閉じ込められてしまうわ。一生、村の笑いものよ。田舎の人たちは、三代も前にニワトリを盗まれたことだって忘れずに覚えていて、ずっと憎み合っているんだから」
「違うよ」
高須さんは落ち着いて否定しました。
「ふるさとは、そんなにひどい場所じゃない。家族だってそんなものじゃない。僕は、ふるさとを失った人の悲劇を知っているんだ。乙やん(乙彦さん)には、ふるさとがなかった。君も知っているだろうけど、乙やんは僕の伯父さんの、お妾(めかけ)さんの子供だったんだ。お母さんと一緒にあちこちを転々として、本当に苦労した。僕は知っている。あの人は、立派な人になろうと一生懸命だった。自分を捨てたお父さんを見返してやろうと思っていたんだ。ずば抜けた天才で、本当にすごかったなあ。勉強もした。偉くならなければいけないと思っていたんだ。歴史に名前を残そうと考えていた。でも、力尽きて死ぬ前の日、あの人は僕に『親孝行しろ』と言ったんだ。『じっと我慢して、慎ましく生きろ』ってね。僕は最初、冗談かと思った。でも、最近になって、ようやくその意味が少しずつ分かってきたんだ」
「いいえ、そんなんじゃないわ」
数枝さんは、どうしても譲りません。お酒と興奮で頬を赤くして言いました。
「あなたはそれでいいわよ。立派な家庭で何不自由なく育って、学問もしっかりあって、ご両親もそろっているんですもの。乙彦さんじゃなくたって、誰だってあなたには『親孝行しなさい』『家を大事にしなさい』って、心から勧めるわよ」「でも、私たちは違うの。そんなんじゃないわ。
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