初級翻訳・火の鳥 第9話

太宰 治

とにかくお昼の十二時に、雪が溶けてドロドロになった道を苦労しながら歩いて戸山が原にたどり着くと、ちょうどその時、シャツ一枚の姿になった三木朝太郎が、助七のすごい力で投げ飛ばされて、空中でくるりと一回転しているところだったのです。

さちよは、それを見て一人で大笑いしてしまいました。

見ていると、まるで二匹の小さな子犬が雪の原っぱで上になったり下になったりして、じゃれ合って遊んでいるようで、期待していたような、ハラハラするかっこいい決闘の雰囲気は少しもありませんでした。

二人の男の人も、なんだか笑いながら戦っているように見えて、さちよはすっかり拍子抜けしてしまいました。

やがて、助七がドサッとひっくり返ると、三木がのそのそとその上に馬乗りになり、助七の顔を何度も何度もポカポカと殴りつけました。

するとすぐに、助七の、まるでホトトギスの鳥の鳴き声のような悲しい叫び声が聞こえてきました。

さちよは、木の陰からひらりと飛び出すと、小走りに走って三木のすぐ後ろまで近づき、持っていた傘をポイッと投げ捨てて、三木のほっぺたをピシャリと叩きました。

三木はびっくりして振り返り、「なんだ、君だったのか」と、優しく微笑みました。

そして立ち上がると、さっさと着物を着直し始め、「君は、この男のことが好きなのかい?」と聞きました。

さちよは、首を激しく横に振りました。

「それなら、そんな安っぽいおせっかいな正義感はよしなさい。いいかい、かわいそうだと思う気持ちと、相手を好きになる気持ちは別物なんだよ。相手を理解することと、愛することも違うんだ」そう言いながら、身なりを整えて、いつもの少し気取った歴史の先生のような態度に戻ると、「さあ、帰ろう。君は、自分の好き嫌いにもっとわがままになっていいんだよ。嫌いなやつは、どうしてもダメなんだ。どんなに一緒にいたって、好きになれるわけがないんだからね」と言いました。

助七は、あお向けに寝転がったまま、両手で顔を覆って、おかしな声でうなりながらワンワン泣いていました。

三木が着ている大きなコートの中に隠れるようにぴったりと寄り添いながら、五十メートルほど歩いたところで、さちよがふと後ろを振り返ると、ぎょっとしました。

なんと助七は、雪の上にどっかとあぐらをかいて、さちよが置き忘れていった柳の絵が描かれた青い和傘に火をつけて、たき火代わりにしてボーボーと燃やしながら温まっていたのです。

バリバリと傘の骨が焼ける音がはっきりと聞こえてきて、さちよは、まるで自分自身がそのまま火の中に投げ込まれて燃やされているような、恐ろしい気持ちになりました。

これからの物語には、女優となった高野さちよの、女優としての人生を書いていくことにしましょう。

高野さちよを可愛い「野バラ」とするなら、もう一人の登場人物である八重田数枝(やえだかずえ)は、トゲのある「アザミ」のような女性でした。

数枝は大阪の生まれで、もともとはとても貧しい家庭で育った女の子でした。

お菓子屋さんをやっている年老いたお父さんとお母さんは、今も元気に暮らしています。

たくさんの弟や妹がいて、数枝はその中の一番上のお姉ちゃんでした。

小学校を卒業しただけで、そのうちに十九歳になった数枝は、お店にたびたびやって来るお菓子職人の男の人と仲良くなり、二人で一緒に大阪を飛び出して東京へやって来ました。

お父さんとお母さんも、半分は黙って許しているような感じでした。

お菓子職人の男の人は、二十三歳でした。

東京に着くと、男の人はすぐに銀座のパン屋さんに雇われました。

でも、お給料はとても安いものでした。

二人で暮らす家を持つこともできず、数枝も同じ銀座で働き始めました。

それは、あまりお行儀の良くない、大人のバーでした。

二人の心は少しずつ離れていき、あっという間に、ものすごいスピードで完全に離れ離れになってしまいました。

そのお菓子職人の男の人には、今では別の奥さんも子供もいます。

そして数枝は、平凡なバーのウエイトレスとして暮らしていました。

「人生なんて、こんなものよね」

「人間なんて、だれも信じられないもの」

数枝は小さい頃からそう教えられ、自分でも本当にその通りだと思い込んで生きてきました。

二十四歳になった時、数枝は銀座のバーを辞めて、ダンスホールの踊り子になりました。

その方が、いくらかたくさんのお金をもらえるからでした。

その年の十一月の終わりのことです。朝、数枝がふと目を覚ますと、以前、同じ銀座のバーで一緒に働いていた高野さちよが、しょんぼりとした様子で枕元にちょこんと座っていました。

「だって、もう行くところが他にないんだもの」さちよは、冷たくなった両手で、寝ている数枝の顔をピタッと挟み込みました。

数枝には、言わなくてもすべてが分かりました。

「本当に、おバカなことばかりして」数枝はそう言いながら起き上がると、自分より体の小さなさちよを、ぎゅっと抱きしめました。

何事もなかったかのようにすぐに体を離すと、「ご飯のおかずはどうする? やっぱり納豆にする?」と聞きました。

さちよも、嬉しそうにいそいそとマフラーを外しながら、「私、買ってきてあげる! 数枝は佃煮が好きだったよね。エビの佃煮を買ってきてあげるよ」と言いました。

出て行くさちよの後ろ姿を見送りながら、数枝はガスの栓をひねって、お米の入ったお鍋を火にかけ、もう一度お布団の中にもぐり込みました。

こうして、その日から、さちよの居候生活が始まったのでした。一年の終わりが過ぎ、お正月も、これといって良いこともないまま、するすると過ぎていきました。

みぞれが降るある夜のことです。二人は電気を消して、真っ暗な部屋の中で寝ながらお話をしていました。

「さちよの伯父さんは、でも、いい人だと思うよ。過去のことは忘れろ、忘れろって。誰だって、みんな心に深い傷を抱えて、それを隠して何でもないふりをして生きているんだ。いいなあ。なかなかわかった人じゃない。あたし、なんだか感心しちゃった」
眠そうな声でそう言って、数枝は静かに寝返りを打ちました。

「……私に、お家に帰れって言っているの?」
さちよはお布団の中で小さく丸まって、心細そうに聞き返しました。

「まあね」
数枝は少し大人びた言い方で続けました。
「だいいち、あの『歴史の先生』はバカだよ。本当、変わった人だね。いや、もっとひどい。女の子を連れ去るなんて、まるで犯罪者だよ、あいつは。ろくなことをしやしない。余計なことを吹き込んでおいて、また平気な顔をしてここへ押しかけてきて、まるで恩人か何かみたいな気取った口の利き方をしてさ。どこまで自分に酔っているんだか、さっぱりわからないよ。アホやね。あの目つきを見てごらんよ。どう考えたって、普通じゃないんだから」

さちよは、それを聞いてクスクスと笑いました。
数枝も、こらえきれずに一緒に笑ってしまいましたが、それでもこう言いました。
「嫌なやつだよ。笑いごとじゃないって。言ってみれば、女性の敵だね」

「でも、私、知っているよ。

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