初級翻訳・火の鳥 第8話

太宰 治

その席で、三木がうっかり、東北の山奥の温泉宿での出来事について口を滑らせてしまいました。さちよの様子について、ちらりと話してしまったのです。そのあと、「おい、さちよはどこにいるんだ!」と助七が言いました。

「知らないよ」と三木は答えました。

「うそをつくな! おまえが隠したんだろう!」

「やめろよ、みっともないぞ。そんなに心が落ち着かないなんて、まるで暴れるサルのようだな」

そして、「よし、それなら力ずくでも奪い取ってやる。戸山が原へ来い! 痛い目に遭わせてやるぞ!」ということになったのです。

三木も、顔を真っ青にしながら「わかった」と承知しました。

二人は、お正月の日の正午に会うことを約束して、昨日の夜は別れたのでした。

「さちよがどこにいるか、僕は知っているよ」

三木は、落ち着いているところを見せようとしたのか、タバコを取り出してマッチをすりました。

雪の原っぱをなでるように吹いてくる冷たい風が、二度も三度もマッチの火を吹き消しましたが、やっとタバコに火をつけると、三木は言いました。「だけど、僕と彼女はなんでもないんだ。あの人は今、一生懸命に勉強しているんだ。学問に励んでいるんだよ。僕は、それが彼女のためになるとても良いことだと思っている。あの人にあるのは、あふれんばかりの豊かな心(感受性)だけなんだ。その心をちゃんと整理して、まとめて、正しい行動に変えていくためには、やっぱり教養が必要だと思うんだ。優れた知恵が必要なんだ。山の中にある湖の水のように、冷たくて透き通った、曇りのない知恵が必要だと思う。彼女にはそれがないから、いつもやる行動がめちゃめちゃになってしまうんだよ。たとえば、君みたいな男に気に入られてしまって、身動きが取れなくなったりしてね……」

「恥ずかしくないのかい?」と、助七はバカにするように笑いました。「今朝から一生懸命に考えて、暗記してきたようなカッコつけたセリフを言うんじゃないよ。学問だって? 教養だって? 恥ずかしくないのかい?」

三木は、ドキッとしました。思わず、頬が赤くなって熱くなりました。「こいつ、僕の心を全部お見通しだな」と思ったのです。

「本当に嫌なやつだな。よし、相手をしてやるよ。僕は君みたいなやつが、感覚的に大嫌いなんだ。絶対に仲良くなれない運命なんだよ。だけど、最後に聞いておく。君はさちよをどうするつもりなんだ?」

タバコの火はいつの間にか消えていました。消えているタバコをすぱすぱと吸うフリをしながら、三木の指はぶるぶると震えていました。

「どうするもこうするもないさ」今度は、助七のほうが、かえって落ち着き払っていました。「今に居場所を突き止めて、俺は俺のやり方で彼女を大事にするんだ。いいかい、あの女は俺じゃなきゃダメなんだよ。俺だけが彼女のことを分かっているんだ。おまえは山の温泉宿で、たった一晩一緒にいただけなのに、それを手柄みたいにして騒いでいやがる。あの女は、もうおまえのことなんて見向きもしないはずだ。あいつは、そういう女なんだよ」

三木は、思わずコクリとうなずいてしまいました。まさに助七の言うとおりだったからです。

「だけどな、おい」助七は、さらに勢いよく一歩前に踏み出しました。「その一晩のことだって、俺はおまえを許さない。我慢できないんだ。よくも、よくもやってくれたな!」

「そうか、わかった。相手になってやる。僕だって君には我慢できない。なんてうぬぼれたやつだ!」

三木はタバコをぽいっと投げ捨てると、着ていたコートを脱ぎ、さらに羽織を脱ぎ、少し考えてから帯をぐるぐるとほどいて、着物まですっぽりと脱ぎ捨てました。そして、シャツと下着だけの姿になりました。

「女の人のことを体でしか考えられないなんて、かわいそうなやつだな。こっちにまで、その汚らしいにおいが移ってきそうだ。君なんかと取っ組み合いをして着物を汚したら、何度洗っても汚れが落ちないだろう。本当にやっかいなことだ」

そう言いながら、足袋を脱ぎ、高下駄を脱ぎ捨て、最後にメガネを外して叫びました。「さあ、来い!」

ピシャーン!と雪の原っぱに大きな音が響き渡り、右のほっぺたを殴られたのは、なんと助七のほうでした。

すぐさま、ピシャーン!ともう一発、今度は左のほっぺたです。助七はよろめきました。思いがけない素早い攻撃だったのです。

「ううっ」と踏ん張って、助七は腰を落とし、両腕を広げて身構えました。組んで戦えばこっちの勝ちだ、と助七にはまだ自信がありました。

「なんだい、それは。田舎の相撲大会じゃないんだぞ!」三木はそう言うと、雪を蹴ってパッと助七の左わき腹へと回り込み、グワーン!と力いっぱい助七のアゴを突き上げました。

けれども、それは失敗でした。

助七は三木のその拳をすばやくつかむと、一瞬のすきに背負い投げをかけました。それが、見事にあざやかに決まったのです!

三木の軽い体は、雪空の中で一回転して、ドサッと地面に落ちました。

「ちくしょう、やるな!」三木は、お尻を地面につけたまま、力いっぱい助七のお腹の下のほうを蹴り上げました。

「ううっ」と、助七はお腹を押さえました。

三木はよろよろと立ち上がると、今度は真正面から、助七の眉間(おでこの真ん中)をめがけて、ズドン!と自分の頭で頭突きを食らわせました。

これで、勝負は決まりました。

助七は雪の上に、大の字になってひっくり返り、しばらくの間、ピクリとも動きませんでした。

鼻からは鼻血がドクドクと流れ出し、両方の目のまわりが、みるみるうちに紫色に腫れ上がっていきます。

はるか遠くにあるナラの木の陰に身を隠し、真っ赤な、地面を引きずるほど長いコートを着て、蛇の目の和傘を胸にしっかりと抱きしめながら、この戦いを怖そうに見つめている一人の女の人がいました。それは、さちよでした。

さちよは、あの次の日に東京へ出てきていましたが、だからといって、別に勉強も学問も、何もしなかったのでした。さちよには、以前に銀座の同じバーで働いていて、今は神田のダンスホールで踊り子として働いているお友達が一人いました。さちよはその友達が住んでいる四谷のアパートに転がり込んで、編み物をしたり、洗濯をしたり、ご飯の準備を手伝ったりしながら、毎日をのんびりと過ごしていました。

別に、慌てて新しい仕事を探そうともしませんでした。

さすがに、もう一度バーのホステスとして働くのは、気が進まないようでした。

そうしているうちに、三木朝太郎が山の温泉宿から東京に戻ってきました。どこで聞きつけたのか、さちよのいるアパートを突き止めると、ニヤニヤしながら「ねえ、女優さんになってみないかい?」などと言ってきましたが、さちよは「あらあら、大変ねえ」と笑うだけで、まともに相手をしませんでした。

それでも三木はあきらめず、時々アパートにふらりと立ち寄っては、ストリンドベリという作家や、チェーホフという作家の難しいお芝居の本を、一冊、二冊と置いていくのでした。

今朝の早く、三木から電話で「戸山が原で決闘をする」という話を聞いたさちよは、「男の人って、本当に嫌ねえ」とその踊り子の友達と話し合いました。

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