初級翻訳・火星の魔術師 第4話

火星の魔術師

おっしゃる通り、議論よりも現物ですからね……」
健吉は、傍らにいる美しい妹と顔を見合わせて微笑みました。長年の苦労がようやく報われた人のように、楽しそうでした。

火星人

「――それにしても、火星の植物はちょうどこんな具合かもしれませんよ。地球だって、これから何百万、何千万年も後には、自然に進化してこんな果実が実っているかもしれません。地球よりもずっと空気が薄く、太陽の光も弱く、しかも水に困るような環境で、地球から青々と見えるまで茂っている火星の草や木は、きっとこんなふうに染色体の多い、優れたものになっているのではないでしょうか……。そういえば、自然が何千万年もかけてやった進化を、あなたはたった数年間でやってのけたわけですね」
話に夢中になっているうちに、いつの間にか秋の日は暮れて、庭先の杉の木の上には、赤い火星がいつもよりもひときわ明るく輝いていました。
大村も英二も、火星を覗きに行くはずだった天文台のことも忘れ、夕闇に浮かぶ窓辺の、ヒマワリよりも大きな巨大な菊の花に見入っていました。都会の騒音を離れ、久しぶりのこの高原の静けさにうっとりとして、もう椅子から立ち上がるのもおっくうになってしまったのです……。
――ハッと気がつくと、いつの間にか志賀健吉の骨ばった腕がしっかりと椅子の後ろを掴み、のしかかるようにヒゲだらけの顔がすぐ耳元に迫っていました。激しい息遣いが、気味悪く大村の横顔を打っています。
「――おい誠子、さっきのお茶に混ぜておいた薬がようやく効いてきたようだぜ。二人ともぐっすりと、いい気持ちで眠っている。ふっふふふ」
(えっ――?)
大村は、ハッとして飛び起きようとしました。
だが、どうしたことか手足はまるで鉛のように冷たく、重いのです。声さえ出ません。誠子と呼ばれたあの妹が何か言っているようですが、それすら聞こえません。ただ耳元で、激しい息遣いとともに喋る志賀健吉の悪魔のような声だけが、途切れ途切れに響いていました。
「――ありがたい、いよいよ最後の実験ができるぞ。草や木はもうたくさんだ。人間の染色体を増やしたらどんなことになるか?……男は四十七だから、それを二倍の九十四に、それから三倍の百四十一にしてやろう……この二人が世界最初の『火星人』となって成功するか。成功したら、きっと今までの人間なんて猿のように見える、素晴らしい新人類が出現するかもしれんぞ……それとも、まんまと失敗するか……なに、失敗したって……」
大村は、頭の中までがすっかり冷たい鉛になってしまいました。それ以外、何も聞こえなくなってしまったのです。

×       ×

その夜の未明、星明かりの草道を一目散に駆ける二人の姿がありました。大村と英二でした。始発の上り列車に乗るために、夢中で歩いているのです。
――大村は、誠子の顔を思い出しました。誠子が二人を必死に揺り起こしてくれたのです。
「早く、早く逃げてください! どんな立派な実験だって、あなた方にもしものことがあったら大変です。逃げてください。兄のお茶にも同じ眠り薬を入れておきましたから、もうしばらくは大丈夫だと思いますけど」
大村は、ふらふらと立ち上がったのでした。でも、目の前のテーブルに、どんよりと濁った液体が入ったビンや、注射器が置いてあるのに気づくと、さっきの不気味な言葉を思い出して、眠気なんて冷たい水を浴びせられたみたいに、いっぺんに吹き飛んでしまいました。

「ありがとう。でも、ぼくたちを逃がしたりして、あなたは大丈夫なんですか?」

「いいえ、私のことなら……」

「でも、もしもあなたが、あの恐ろしい実験の身代わりになるようなことがあったら――」

「いいんです。いくらなんでも、兄妹なんですから……」

そう言って、顔をそむけた誠子さんの顔は、星の光の中で夕顔の花みたいに真っ白で、大村さんはどうしても忘れられませんでした。

大村さんは、歩きながら何度も何度も、後ろをふり返りました。

けれど、やっぱりダメでした。

誠子さんは、どうしてもついて来ようとはしなかったのです。

――その後、『火星の果実』がお店に並ぶことは、どういうわけか、一度もありませんでした。

もしかしたら、志賀健吉は自分自身の体を使って、あのあやしい実験を続けているのではないでしょうか。

そして、もしかすると彼は、あの美しい妹と一緒に、だれも想像できないような『火星人』に姿を変えてしまったのかもしれません。

(「ユーモアクラブ」昭和十六年五月号より)

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