初級翻訳・火星兵団 第7話

海野 十三

無理やり似ているにおいを探してみるとすれば……牛小屋の横を通ったときに漂ってくる、あの強烈なにおい――あのにおいをもう少し高級にして、そこに海そうのにおいを混ぜ合わせたような、不思議なにおいです。今、千二くんがかいでいるのは、まさにそんな不気味なにおいなのでした。けれども、牛小屋と海そうのにおいを合わせただけではありませんでした。
そのうえに、もう一つ、今までに一度もかいだことがないような、妙にピリピリとしたにおいが混ざっていたのです。
なんとなく美味しそうに思えるのに、なんだか胸がムカムカしてくるにおい。
かいだこともない、不思議なにおい!
それもそのはずでした。
これこそが、火星の生き物の「汗のにおい」だったのです。
火星の生き物の汗のにおいが、その部屋いっぱいに立ちこめていたのでした。
はじめのうち千二くんは、「なんだかいいにおいだな」と思ったのですが、すぐに胸が気持ち悪くなってムカムカしてきました。
それほど、不快でいやらしいにおいだったのです。

そのとき、ギーッという音がして、だれかが近づいてくる気配がしました。
千二くんは、パッと目を開けました。
それまでの千二くんは、意識を取り戻したとはいっても、体に力が入らず、ぐったりと目をつぶったまま、ただ鼻でにおいを感じていただけだったのです。

「おい、ボク。今元気にしてやるからな」
うすいピンク色の湯気の中から、突然、こんな声が聞こえてきました。
「えっ?」
千二くんは、声がした方を振り向きました。
湯気がモクモクと渦を巻いています。
その向こうに、だれかが立っています。
ぼんやりと、頭の形のような丸いものが見えました。
「だ、だれ……?」
千二くんは、その丸い頭のようなものに向かって声をかけました。

「だれでもない。オレだよ」
湯気の中から、ぬっと姿をあらわした者がいました。
頭には、つばの広い黒いソフト帽子をかぶり、同じ真っ黒な丈の長いコートを地面に引きずるようにして着ている大男でした。
黒いレンズの入った大きなメガネをかけているので、顔立ちがどんなふうなのかは、はっきりわかりません。
そのメガネの上からは、太いマユ毛がのぞいています。
鼻は、まるで作りもののようにツルツルしていて、きちんとした三角形の形をして尖っています。
くちびるは肉が薄く、左右にとても長く伸びています。
アゴのあたりは、よく見えません。
コートの襟を立てて、その中にほっぺたから下をすっぽり隠しているのです。
胴体は、さっき言ったようにすごく太いのですが、両方の腕はコートの上から見ても、ものすごく細くて長いのでした。
だから、太い体と細長い腕のバランスが、妙に不釣り合いなのです。
まったく、千二くんの見たこともないおじさんでした。
千二くんは、この真っ黒ずくめの格好悪いおじさんを一目見た瞬間、なんだかものすごく嫌な気持ちになりました。
正直に言ってしまうと、まるで「クモのバケモノ」みたいな人間だったからです……。

「だれですか、おじさんは!」
「おじさん? おじさんとは、何のことかな」
「おじさんというのは、あなたのことを言ったんですよ」
「おじさん」という言葉すら知らないなんて、なんとも変な大人です。
千二くんは、ますます薄気味悪くなって、立ち上がろうとしました。
けれど、立ち上がることができません。
よく見ると、彼の下半身は何かで縛られているらしく、立とうとしても体がちっとも言うことをきかないのでした。

「ああ、こらこら。じっと寝ていなさい。今オレが、お前を元気にしてやるから」
と、クモのバケモノみたいな黒ずくめの大男が言いました。
「もう結構です! それよりも、あなたはだれなのか教えてください。それから、どうして僕がこんなところにいるのか、それを教えてください!」
「はははは。そんなに気になるかね? 本当のことを教えてやってもいいが、お前がびっくりするだろうから、まあ、やめておこう」
「そんなことを言わないで、教えてくださいよ!」
「そうか。絶対に驚かないと約束するなら、教えてやってもいいぞ」
そのクモのバケモノみたいな大男は、言葉をしゃべるたびに、くちびるを境目にして、鼻の下からアゴにかけての皮膚が、まるで障子紙みたいにブルブルと震えるのでした。
どう考えても、ただ者ではありません。

「僕、絶対に驚いたりしません!」
千二くんは、心の中で固く決心しました。どんなことがあっても絶対に驚くまい、と。

「そうか。絶対に驚かないな」
と、大男は念を押してから言いました。
「よし、では教えてやろう。いいか? お前が今こうしている場所は、火星のボートの中なんだ。そしてこの中には、火星の生き物が14、5体も乗っているんだぞ」
「えっ! 火星のボートの中ですって!?」
「なんだ。やっぱり驚くじゃないか」

火星のボートの中! これで驚かずにいられるでしょうか。
火星のボートの中に、今自分はいるというのです!
いつの間に火星のボートの中に入り込んでしまったのか、千二くんにはさっぱりわかりません。

「……じゃあ、僕の体は、もう地球から離れて宇宙に出てしまったんですか?」
「う、うーむ、まあ、そのあたりのことは好きに考えておけばいいさ」
クモのバケモノみたいな大男は、少しあわてた様子でしたが、一応の返事はしました。

そうか、火星のボートの中だったのか!
道理でヘンテコなにおいがするはずです。こんな不気味なにおいは、地球の上にはないにおいでした。
でも、ボートだというのに、天井があるのが不思議です。
火星では、天井がついているボートを使うのでしょうか?

「おい。」「今お前を元気にしてやる。そのあとで、ひとつ頼みたいことがあるんだ」
その大男は、突然そんな用件を話しはじめました。
「頼みたいこと、ですか?」
千二くんは目をぱちくりさせて、この不思議なおじさんの顔を見上げました。
「一体、おじさんは何ていう人なんですか。……ああ、そうか。おじさんもやっぱり、火星の生き物なんだね」
そうだ、絶対に違いない!
人間と同じような姿をしていたから、今生までは人間だと思って話をしていたけれど、火星のボートの中にいて威張っているんだから、やっぱり火星の生き物に違いありません。
だけど、それにしては、どうしてこんなに日本語が上手なんだろう?
「お、オレのことかね」
と、大男はまたオロオロとした様子を見せましたが、やがてクモのように肩をいからせると、
「オ、オレは人間さ。お前と同じ人間なんだよ。ほら、よく見てごらん。人間と同じ顔をしているだろう? 話だってちゃんと通じるじゃないか。火星の生き物なんかじゃないぞ。だから、オレを怖がる必要はないんだ。仲良くしようじゃないか」
と、その薄気味悪い大男は言うのでした。
とんでもない、嘘ばっかりだ!と千二くんは心の中で思いましたが、口に出して言ったらこの大男を怒らせてしまうかもしれないと思い、黙っておくことにしました。
「おじさんは、本当に人間なんですか?」
「そ、そうに決まっているだろう! なぜそんなくだらないことを聞くんだ」
「でも、変ですよ。

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