そこで、恋の道なればこそ身分の尊い我が身を曲げて、平素の恩顧を思えば、あの美しいお姫様を俺にうまく取り持ってくれと、荒尾先生に頼み込んだそうだ。
荒尾先生はほとほと困り果てた。
例によって彼女も、妻になると約束したわけではないが、その場しのぎの安請け合いをしたものの、その後間もなく御当人が第一に失恋を歌うようになってからは、プイとどこかへ隠れてしまった。
行平殿はもともと公卿(くぎょう)育ちで世間の苦労など一切ご存じないのほほんとしたお方だから、今度はご自分から毎日お抱えの車に乗り、深草の百夜(ももよ)通いも何のそのといった具合に、なかなかの御熱心さだった。
なにしろ身分は伯爵の御曹司である。
色白の上品でのっぺりとしたご容貌に加えて、香水やら化粧品やら白粉やら使えるだけのものは塗りたくって、お召し物は羽二重(はぶたえ)ずくめに金の時計、金の鎖、金の指輪、その上に人力車やら自転車やらお馬さんやら馬車やら、折々はわざわざ手軽にきびきびとした洋装姿で歩いてみせたりと、何から何まで一生懸命に身なりを飾られた。
人間様の恋路の笑止千万なところは、鍋小路殿を通じて初めて知ったので、毎日顔を見るたびに俺は腹筋がちぎれそうになったよ。
もっとも、非常に尊いご身分のお方だから、いも長芋などと悪口が出そうになるが、右を向いても左を見てもお美しく、麗しい若殿様だ。
それに学問こそお出来にならないそうだが、小説の類は何でも読んであるらしい。
小説に関するご議論もなかなかなもののようだ。
荒尾君の作品などはいつでも木端微塵(こっぱみじん)に軽蔑されるし、お屋敷の書斎にはシェイクスピアをはじめディケンズやサッカレイの全集が飾ってあるそうだ。
たしかドイツ語はお読みにならないはずだが、ゲーテやシラーの全集もあるそうだ。
イプセンもハウプトマンも、流行のニーチェもあるそうだ。
何だか知らないが、とにかく金ピカの本が大きな西洋書棚にいっぱいあるそうで、大抵の者は見ただけで圧倒されてしまうそうだ。
その上に自転車と写真が大の御自慢で、自転車競争会や写真品評会の賛成員となっていらっしゃる。
右を向いても左を見ても、文明紳士として恥じかしくないお方だ。
しかし、肌の色が生白くて眉毛がちょろっとしていて眼尻が垂れ、ちょっと失礼な言い方だが、黄表紙(きびょうし)の挿絵の婆娑羅(ばさら)の者か何かにどこか似ていた。
第一、気味の悪い目つきをして生ぬるいお世辞を言われると、ぞきっと身震いが出る。
やっぱり佐渡の惚れ薬の効能で威張っているようなお方だから、これで邸の御令嬢様を落とそうというのはとんでもない勘違いだ。
しかし、町人とは違ってそこは大名育ちだから、むやみにお金で威張ろうという卑しい根性はないようだが、いやはや、一生懸命に精を出して贈り物をお届けしてくる。
俺が覚えているだけでも、真珠を七つはめ込んだネクタイピン、無線七宝(しっぽう)の宝石箱、フランス製の象牙の骨の扇子、何とかいう名高い絵師が描いた「十二ヶ月美人」とかいう冊子など、どれもその辺の安売り店では買えない高価な品を、月に一遍くらいは必ず持って来た子。
その合間には、香水だとか石鹸だとか白粉だとかの舶来の上等品はよく持って来たよ。
あまりに貰いすぎるので、奥様も御令嬢様も心配なさったが、くれるものを断るわけにもいかず、断ったとて向こうが置いていけば無下に突き返すわけにもいかず、仕方がなしに、美術会で名高い彫刻家が作った銀製の煙草入れを買って、御返礼として差し上げた。
すると、鍋小路の若殿はまるで結納の品でももらったかのように有頂天になって、その煙草入れを片時も離さず、いたるところで「番町随一の美人からいただいたんだ」と吹聴して回ったそうだ。
偶然この話が御令嬢様のお耳に入ったから、御令嬢様はびっくりなさって、「とんでもないことをしてしまったわ」と後悔なさったのだ。何でもこれは、これ以上は無理なお願いをしてあきらめさせようとお考えになり、むやみに物をくれるお金持ちの若殿様なんだから、一つ無理難題をふっかけてやろうと思い立たれた。
今さら長良の橋の鉋屑(かんなくず)や、井手の蛙の干物なんてありふれていて珍しくもないからと、行平殿がやっていらした時、
「おや若様、わたくしが今まで見たことがないのは、在原業平朝臣(ありわらのおなりのあそん)の歌枕、松風村雨(まつかぜむらさめ)の汐汲桶(しおくみおけ)、へまむし入道の袈裟法衣(けさほうえ)、小豆大納言(あずきだい納言)の小倉の色紙、河童の抜いた尻子珠(しりこだま)、狸が秘蔵の腹鼓(はらづつみ)、どれか一つ見せてくださいな」
と、お嬢様が甘えておねだりすると、行平殿は頭をなでながら、
「わしの家には矢大臣(やだいじん)・左大臣殿の歌集のほに何もないが、親戚中に聞いて確かめてみよう」
とお答えになり、もしこのお望みに応えられなければ恋の糸が切れてしまうのではないかと心配しながらお帰りになった。
それからはぱったりと来なくなってしまったが、何かお詫びのような手紙を送ってきたそうだ。
若殿様だけに、どこかかわいらしくて頼りないところがあるものだ。
我こそはと自惚(うぬぼれ)の鼻をふくらませて、やたらとしつこくお嬢様のところにやって来るのは、まさにこういう連中なのだ。
どいつもこいつも、合格点などとてももらえそうにない若殿様ばかりだ。
ご主人様がおっしゃる通り、日本のように「男女七歳にして席を同うせず」という古い封建道徳のしきたりがガチガチに残っている国で、若い女の子のところへ恥ずかしげもなくのこのことやって来るのは、どうせ軽薄な小才子(こさいし)か、女の機嫌を取るのが嬉しくてたまらない腰抜けの気力なしの男だけだ。
たまに筋金入りの真面目な人がいたとしても、神野霜兵衛(じんのしもべえ)さんのように世渡りの下手な気のいいお人好しくらいのものさ。
まともで慎重な考えのある人間が、好き好んで若い女のところへホイホイやって来るもんか。
お屋敷のお嬢様はとても賢いお方だから、男にいいように丸め込まれるようなことは決してない。
あんな若殿様たちに、お茶の相手などされてたまるものか。
第一、この俺がついているんだからね。
俺が絶対に許さないさ。
お嬢様は毎日俺の頭をなでながら、
「太郎や、わたくしは一生あなたと離れないよ。あなたの好きなところへあなたを連れてお嫁に行くからね。もしあなたの好きな人が現れたら、わたくしの袂(たもと)をくわえてその人のそばへ連れて行ってちょうだいね」
とおっしゃるんだ。
失礼ながら、お嬢様の結婚相手を選ぶ権利はこの俺様にあるのさ。
えっ、何だって?――「お前のような犬に結婚相手が選べるのか」だって?
……はっはっはっ、すっかり心配になってきたようだな。
大丈夫、安心しなさい。君たちのようなフラフラした怠け者を誰がお世話するものか。
どうあっても君たちには、お嬢様のような申し分のない素晴らしい淑女の配偶者になる権利なんてないんだからさ。
いっそあきらめて、自分の身の丈に合ったその辺の下宿屋か牛肉屋の女の人でも探したまえ。
なに、「失敬極まる」だって?
ご冗談を。心当たりがちゃんとあるくせにしらばっくれているじゃないか。
初級翻訳・犬物語 第7話
内田 魯庵
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