初級翻訳・猿飛佐助 第8話

猿飛佐助

あはは……」
「なんだとっ!」
 坊主は頭に血をのぼらせて、真っ赤になりながら立ち上がりました。
「あはは……。なんだか薬鑵(やかん)の頭(つるっぱげの頭)から湯気がシューシュー出ているようじゃが、はてさて、これはもうお茶漬けの用意でもできているのでござるか? なんとも手際が良いことだなあ」
「黙れ!」
 坊主はぐっと真槍をしごき構えると、
「――えいっ!」
 と、ものすごい勢いで佐助の胸めがけて突き出しました。
 しかしその瞬間、佐助の姿はパッと消えてなくなっていました。
「なんだと、この野郎は魔法つかいか! いきなり姿が見えなくなるなんて、怪しからんやつめ」
 と坊主は目を丸くして驚きましたが、すぐにカラカラと大きな声で笑い出すと、
「いや、きっとそうではまいまい。おそらく、わしの槍の鋭さに突き飛ばされて、猿沢(さるさわ)の池あたりまでビューンと吹っ飛んでしまったのだろう。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、南無阿弥陀仏、万物は過ぎ去って二度と戻らず、人生は流れ行くもの、生きる者は必ずいつかは滅び、目に見えるものすべては空しい幻なり!」
 どうやら修行がまだまだ足りない様子の坊主が、しどろもどろになりながらめちゃくちゃな念仏を唱えているその頭上、空中にフワフワと浮いたままの佐助は、鉄扇(てっせん)でその頭をめがけて、容赦なく「バシッ!」とものすごい音で叩きました。
「参った!」
 佐助はドロドロと見事な変化(へんげ)を解いて姿を現すと、
「これまた失礼仕った!」
「ぬぬっ、この野郎!」
「あはは……。お手前のそのお頭(つるっぱげ)から出た怒りの火で、薬鑵の湯気がいい具合に煮え立っておるのを見ると、どうやらお茶の用意もすっかり整ったと見える。――どれ、さっそく美味しい茶漬けをごちそうになりましょうかな!」

 宝蔵院仕込みの名物(?)茶漬けですっかり味をしめた佐助は、その日の昼食を、奈良から一足飛びにビューンと飛んで行った京の都、今出川(いまでがわ)の川畔(かはん)にある、当時洛中(らくちゅう)でその名をとどろかせていた「富田無敵(とみたむてき)」という男の道場で、たいらげました。
 晩ご飯は同じく四条(しじょう)にあり、元は室町幕府に仕えていた吉岡憲法(よしおかけんぽう)の道場、翌日の朝ご飯は百万遍(ひゃくまんべん)にある舎利無二斎(しゃりむにさい)の道場と、京都中の道場を一つ残らずすべて食べつくした(試合に勝ってごちそうになった)挙句、京の都を「今日(きょう)」限りにあとにして大坂へと現れた時には、すでにその「あたけ(あばた顔)の茶漬け侍」という恐ろしい威名は、醜いあばた面のうわさと共に、大坂中にものすごい勢いで鳴り響いていました。
 大坂の道場たちもまた、佐助の人間離れした忍術の前には赤ん坊も同然でした。
 その赤ん坊の手をひねるように軽々と次々とやっつけていった佐助の足は、やがて須磨(すま)、明石(あかし)、姫路(ひめじ)、岡山(おかやま)と中国地方をぐんぐん進み、ついに九州の南の端っこにまで及び、琉球(りゅうきゅう)の「唐手術(からてじゅつ、空手のこと)」でさえも佐助の前ではまったく歯が立たず、もろくも崩れ去っていきました。
 佐助の自尊心は、ここまで来ると、自分の顔にあるあばたのコンプレックスを補って余りあるほどに大満足し、
「天下は広いといえども、この俺より強いやつに一人も出会わなかったとは、はてさて、世の中には弱い奴ばっかりが、まるで佃煮(つくだに)にできるほどたくさんおったものだなあ」
 と、道中を歩くときの歩き方までなんだか偉そうに変わってきました。しかし、あちこち武者修行して回った帰りの道を、自分の足でとぼとぼ歩いて帰るのは、いささか面倒くさいことでした。
 そもそも、武芸者たちが諸国を旅して歩くのは、自分より強い本物の武芸者に会って教えを乞い、自分の腕をさらに磨きたいという純粋な気持ちからというよりも、「天下に自分より強いやつがほかにいるかどうか知りたい」「自分より強い人間などいないのだとハッキリさせて、自分に酔っていい気持ちになりたい」という、傲慢(ごうまん)でプライドの高い理由からであることが多いのです。
 そう考えてみると、佐助にとっては、すでに自分より強い者は唯一の師匠である白雲斎(はくうんさい)のほかには誰もいないとハッキリわかった今、弱い奴らばかりが集まって「一月いくら」の月謝欲しさに細々と道場を開き、その中で威張りくばっているような国々を、もう一度てくてく自分の足で歩いて帰るほど、退屈でつまらない話はありませんでした。
 そこで佐助は、久しぶりに得意の「飛行の術」を使って、一足飛びにビューンと空を飛んで帰ることにしました。
 だが、いったいどこへ帰ればいいのだろうか。
 いまの俺に、安心して帰るべき「家」なんてあるだろうか。
 いとしい楓(かえで)の待つ信州へ帰ろうか。
いや、顔のあばたの穴がすっかり消えないうちは、楓の前に堂々と顔を合わせるわけにはいかない。
そう考えると、佐助の胸にはふと寂しい憂鬱(ゆううつ)な気持ちがわいてきましたが、
「行きはよいよいの、まるで中風(ちゅうふう、病気のこと)のような弱い武芸者たちが相手だったが、帰りは雷様を道連れにするとは、なんとも洒落(しゃれ)た旅路じゃないか!
『えいっ!』と気合の声を叫べば、この体はすぐに大空へと舞い上がる。
ぐんぐん高く登っていけば、あの恐ろしい雷様さえもはるか下に見下ろせる。
不死身の強さは日本一、これぞ猿飛佐助の空の旅だ!」
 と、心の中で威勢のいい冗談をぽつりとつぶやくと、さっきまでの憂鬱な気分はどこかへ吹き飛んでしまい、得意満面の鼻歌をくちずさみながら、広大な大空を気持ちよさそうに飛んで行ったのでした。そして、九州を通りすぎ、中国地方の空を飛び、大坂や京都の上空をすぎて、近江(おうみ)の国にある甲賀(こうが)の山の上まで飛んできたときの佐助は、自分が一番すごいんだという自慢の気持ちと、若さゆえのワクワクした興奮で、気も遠くなるほどいい気分になっていました。

ところが、ふと下の甲賀の山の中を見ると、なにやら怪しい妖気(ようき)がもくもく立ちのぼっているのが見えました。
「はて、変だな?」
と、佐助がつぶやいたその瞬間でした。
「――あっ!」
いきなり空を飛ぶ術(飛行の術)がパッと破れてしまい、佐助の体は甲賀の山の中へまっさかさまに落ちていきました。でも、さすがは佐助です。地面すれすれのところで素早く宙返りをして、体中が木っ端微塵(こっぱみじん)になるのだけは、すんでのところで免れました。

「ふーむ。
この俺の飛行の術を破るなんて、いったいどんな妖怪の変化(へんげ)のしわざだ?
俺の術を破ることができるほどのやつなんて、この広い世界を探しても、俺の師匠である白雲斎(はくうんさい)さまのほかにいないはずだが……。伊賀流(いがりゅう)の者か、それとも甲賀流(こうがりゅう)の者か? どちらにしても手強い相手だ、さあ、名前を名乗れ!」
と、大声で怒鳴りながら立ち上がろうとしたところ、いきなり足をすくわれて見事にドスンと尻もちをついてしまいました。

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