初級翻訳・「モダン猿蟹合戦」 第1話

「モダン猿蟹合戦」

二日ほど前のことです。
ちょっと用事があって下町へ出かけ、日本橋の白木屋の前を通りかかりました。
いつもはたくさんの人で賑わう場所ですが、その日は一段とすごい混雑でした。
白木屋のショーウィンドウのまわりが、ものすごい人だかりになっているのです。
「いったい何だろう?」と思って近づいてみると、いくつも並んだ大きなデパートの窓に飾られているのは、いつものようなおしゃれな洋服を着たマネキン人形ではありません。
――人形は人形でも、本物そっくりの雪景色の中に立って、防寒着を着こんだ兵隊の人形だったのです。
みんながわんさかと群がっていたのは、それを見ていたからでした。
上の方には、「満蒙(まんもう)展覧会」という大きな広告も出ています。
ちょうど時間もあったので、ちょっと中に入って見てみることにしました。
白木屋の入口に立っている案内書きを読んでみると、展覧会の会場はいくつもあって、近いうちにすごい陸軍のえらい軍人さんがやって来てステージで講演をしたり、軍用犬のすごい訓練を見せたりするスケジュールまで書いてありました。
――
ご存じのとおり、この頃は毎朝新聞を広げると、「満蒙派遣軍(まんもうはけんぐん)」のニュースでいっぱいになっています。
満州での戦いのことばかりが書かれていて、「慰問金(いもんきん)をいくら寄付した」という金額が、まるで浅草観音(あさくさかんのん)の寄進帳(きしんちょう)のようにずらりと並んで印刷されています。
世界中を見渡せば、満蒙の事件のほかにも、もっと大切なことがたくさん起きているはずです。
日本国内だって、すぐ近くで市電(路面電車)の運転手さんたちの大きなストライキが迫っているし、八幡製鉄所(やわたせいてつじょ)では千人近い人たちがクビになろうとしています。
東北の青森地方では、ひどい大飢饉(だいききん)です。
そういうことは新聞の隅っこにちょこっと載るだけで、あとはどこを向いても「満蒙」「満蒙」の大合唱です。
まるで、私たちが考えなければならないこと、一生懸命にならなければならないことは「満蒙事件」しかないかのようです。でも、それならそれでいいとしましょう。
そもそも、この満蒙について、白木屋の展覧会は私たちにどんな「本当のこと」を教えてくれるのでしょうか?
それ自分の目で確かめたくて、中に入ってみたというわけなのです。

割引電車の切符売り場のようにぎゅうぎゅう詰めのエレベーターに押し込まれ、五階で降ろされました。
紅白の幕で飾られた展覧会の入口から入ると……、まあ、これはすごい熱気です!
小学生、小さな女学生、お祭りの法被(はっぴ)を着た労働者、お店の制服を着たどこかの小僧さんの一団まで混ざって、見物人たちはすし詰め状態になりながら太い手すりのほうへ押し寄せ、床がギッシギッシと音を立てて揺れています。
誰もかれもが興奮して顔を真っ赤にしています。
係員の店員さんが、「気分が悪くなった方は救護所がございまーす!」と必死に叫んでいるような状態でした。

そんな人たちをグイグイと吸い寄せているのが、「モダン猿蟹合戦(さるかにがっせん)」という絵物語のパネルでした。
『猿蟹合戦』のお話を知らない子どもなんて、一人もいません。
その誰もが知っているお話をうまく利用して、意地悪な「猿」を「支那(中国)」に見立ててあるのです。
そして「蟹」は「日本」です。
昔々、蟹が日清戦争のときに「遼東半島(りょうとうはんとう)」というデカいおにぎりを手に入れたら、ずる賢い「熊」(これは昔のロシアの金持ちや地主たち)、「虎」(フランス)、「狼」(イギリス)が横からしゃしゃり出てきて、日露戦争のときにその大きなおにぎりを蟹から取り上げてしまい、代わりに小さな「柿の種」(北満州)を無理やり押しつけた、というストーリーになっています。
農民みたいな格好をした蟹は、しかたがないのでその柿の種にせっせと肥料をやり(パネルには「二十七年の歳月。十万の尊い命、二十億の投資」と書いてあります)、やっとの思いで立派な柿の実(石炭、石油、大豆、オートミール、そのほか色々)を実らせました。
すると、その出来があまりにも素晴らしいので、猿がうらやましがり、嫉妬(しっと)しだしたのです。
しまいには美味しい柿の実を盗もうとして、日本の南満州鉄道を取り囲むように、線路を何本も勝手に作り始めました。
だけど蟹は、青い顔をして怒りをこらえながらじっと我慢していた。すると猿は調子に乗って、とうとう柿の木を根っこから切り倒そうとし始めた。
これが「九月十八日」の満州鉄道の爆破事件なのだと、この絵では説明されています。
爆発した線路の上で、汽車がひっくり返りそうになっている物すごい絵が描かれています。
そこで蟹もさすがに我慢できなくなって、ハサミでプツンと突いた。
これが「満蒙出兵(まんもうしゅっぺい)」なのだそうです。
すると猿は、虎や狼たちが集まっている「国際連盟」のところに駆け込んでいって、日本の悪口を告げ口している。
しかし、蟹はツリ目になって、柿の木の根元にどっしりと踏ん張っています。
その絵の横には、こんなふうに書いてありました。
「昔の猿蟹合戦では、親のかたきを子が討ちました。けれども今は、子や孫がかたき討ちをするわけにはいきません。なぜなら、満蒙は私たちの『生命線』だからです。いったこれを切り取られたら、私たちは永久に死ななければならないのです」

これは、なんと陸軍省が描いたものでした。
見物客のみんなは感心したように、「なるほどねえ」と言いながら見つめています。
小学校の六年生くらいの女の子が、突然、周りの大勢の人たちに負けない大きな声で、
「満州をとっちゃったら、もっとお金とかが取れて得するねえ!」
と元気よく言いました。
すると、一緒に見ていた若い学生のお兄さんが、さすがにちょっと恥ずかしそうに小さな声で、
「とるんじゃないよ」
と言いました。
(なるほど、ブルジョア向けの新聞には「満州をとる」なんて露骨には書いていないのです)
「じゃあ、借りるの?」
「――さあ、なんて言うのかな――」
うまく説明ができなかったのか、お兄さんはそのまま黙り込んでしまいました。
絵は色鮮やかに使われていてすごく目を引くように描かれているし、みんながよく知っている『猿蟹合戦』になぞらえて、猿を昔話と同じ「悪者・かたき」と最初から決めつけて描いているので、一見すると誰にでもわかりやすいような気がしてしまいます。
ところが、よーーく心を落ち着かせてこの絵物語をよく見てみると……、なんだかすごく変なのです。
そもそも、「遼東(りょうとう)」という大きなおおきなおにぎりをまず自分で奪い取っておきながら、それを「柿の種」に替えられたからといって怒っている蟹は、「日本」のことだと書かれていますが、よくよくじっくり考えてみると、これはとっても変なお話なのではないでしょうか。日本と言っても、そこには大金持ちの資本家と、彼らにしぼり取られてばかりいる働く人たちという、はっきりとした違いがあります。

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