何事かと思って出てみたら、坂の上で同じ場所をぐるぐると回り続けていてねえ。あたしが行ってやっと連れ戻したんだけど、あたしの顔を見てもまだ「キツネに化かされてる!」って言い張っていたっけ。
何のことはない、あとからじっくり聞いてみたらさ、質の悪い地酒をたくさん飲んで、そのうえ少し傷んだサバ寿司を食べて、油に酔っ払って頭がちょっとおかしくなっていただけだったんだよ。
本人はね、それをキツネにだまされたんだって言い張って、今でも本当にそうだと思い込んでいるのさ。
ははは、人間って本当におかしなもので、自分で自分をだましちゃうものなんだよ。
キツネにだまされなくたって、自分から勝手にだまされちまうのさ。
ははは! あたしなんかはさ、自分がバカだって分かっているし、バカのくせにずる賢いところもあるからね、自分の目でしっかり確かめるまでは、人の話なんてめったに信じないんだよ。
その田んぼの水の引き込み口を削られた話だって、本当に金五郎がやったことなのかどうか、これっぽっちも分かりゃしないじゃないか。
喜十 だけど、おばあさん……!
おりき サダ、わらじを足一足、持ってきな。
サダ えっ、わらじですか? 何に使うんです?
おりき わらじを何にするかって? ……あたしが履いて出かけるんだよ。
サダ ええっ、どこへ行くんですか?
おりき 海の口まで、ちょっと行ってくるさ。
森山 おや、ということは……?
おりき お前さんたちと一緒に一緒に行って、喜十の言っていることが本当かどうか、この目で見て確かめてみようじゃないか。都合がよければ、須山の旦那や芹沢の金五郎にも会ってみるよ。
森山 本当ですか! そうしていただけるなら、もう、おばあさんが出てきてくだされば、つべこべ言うやつなんて誰もいません、事件は一発で解決ですよ。こいつはありがたい!
喜十 おばあさん、俺はもう、何も言いません。この通り、心から感謝します!
おりき ふん、お礼を言うなんてまだ早いよ。まだ誰もあんたの味方をするなんて言ってないんだからね。行って確かめてみて、もしあんたが間違っていたら、あんたをこっぴどくやっつけてやるから、そのつもりでおいで!
喜十 それでも十分でございます。ひゃあ、ありがたい!
おりき もし向こうが間違っていたら、向こうをやっつけてやるさ。……ははは、今のは冗談だよ。要するに、この白髪頭をペコペコ下げて、あちこちお願いして回るだけのことさ。
次郎 俺も一緒について行くよ!
新一 僕も行くよ。
おりき よしとくれ、お前たちは川上からまっすぐお家に帰りなさい。
せん だけど、おばあちゃん、そんなに急に、足元から鳥が飛び立つみたいに慌てて出かけなくても……
おりき なに、こういうことは早い方がいいんだよ。
サダ はい、わらじです。足袋(たび)は履きますか?
おりき 足袋はいらないよ。(わらじのひもをギュッとしごきながら)そうだ、さっきは次郎の相談だったね。東京へ行くんだって?
次郎 うん。
新一 東京へ行くだけならいいんだよ。だけど次郎は「予備隊」に入るなんて言うから、僕は反対しているんだ。予備隊っていうのは、これから軍隊みたいになっていくらしいんだよ。
おりき ほう、軍隊かい? (わらじを履きながら)
次郎 それでも俺はかまわないんだ。新ちゃんは軍隊を持つことに反対だからそう言うけれど、俺は反対じゃないからね。国を守るために必要なら、俺は喜んで兵隊にだってなるよ!
おりき そうかい。……なんだか、そんな難しい理屈はあたしにはよく分からないけれど、次郎、お前はとにかく、どうしても東京へ行きたいのかい?
次郎 うん、行きたい。
おりき そうかい。それなら、行きなさい。若い時っていうのは二度と戻ってこないんだ。人間、自分が本当にやりたいと思うことをやるのが一番さ。周りの人が何を言おうと、自分がよーく、自分の胸に手を当てて考えてみて、何でもいいから一番やりたいと思うことを、一生懸命やってみることだよ。そうすれば、たとえ失敗したって後悔することなんてない。東京へ行きな。それで、もし上手くいかなかったら、また戻ってくればいいんだよ。
次郎 ……うん。いや、本当はそうじゃないんだ。本当のことを言うと、俺、東京なんかに行きたくはないんだよ。俺は、農業が一番向いていると思うし、ずっと百姓をやっていたいんだ。だけど、家に残ったって、うちの田んぼや畑はただでさえ足りないんだ。次男の俺がここにいて、将来「分家して土地を分けてくれ」なんてことになったら、家が潰れちまう。お兄ちゃんもかわいそうだし、最近、お兄ちゃんの顔を見ているのが、申し訳なくてたまらないんだよ。
おりき ……なんだ、そういうことだったのかい。……それなら、東京なんかに行くのはおやめ。なんだ、そうだったのか。だったら、行くのはやめちまいな、やめちまいな。田んぼが足りないなんて困ったもんだが、なに、俺がちゃんといいようにしてやらないかい。
親戚中から少しずつ分けてもらえば、二反やそこらは集まるさ。
じさまとおらが死んだら、この下の田んぼの一枚くらい、お前にくれてやるよ。
次郎 ……ありがとう、ばさま。
りき なんだい、めそめそ泣きさらして! 娘っこじゃあるまいし、メソメソするのは俺は大嫌いだ。
森山 (これもわらじの足ごしらえをしながら)だけど、なんですかねえ、現代における農家の次男や三男の問題は、これは本当に大きな問題ですよ。
結局は土地が足りないわけですからね、いくら農地改革をやったところで本当の解決にはならない。
人口問題をどうにかするにしても急場しのぎにはならないとなると、こいつは国内だけではどうしても片づかない問題でしてね。
喜十さんの問題なんかも、一番の根本の原因は田んぼが足りないところからきているんですから。
りき そうさね、どうすりゃいいんだろうね。
森山 外国でもこの点は早く考えてくれて、どこかへ移民させてくれるとか、してくれないと――
りき うん。
いずれはそうお願いするほかないようだなあ。
森山 この前の戦争にしたって、そりゃ、日本がやった戦争は間違っていたけれど、その原因の一つには、確かにこの土地が足りない、満洲あたりへ出ていかなければどうにもこうにもやっていけないって事情もあったんだからさ。
これをまたそのまま放っておくと、いろいろとややこしいことになってきますよ。
新一くんや次郎さんのような若い人たちが、「再軍備だ」「再軍備反対だ」となんだか熱くなって考えるようになってきているのも、そこらへんと関係のあることで、気持ちだけはよおくわかるなあ。
りき そうさねえ。
だけど、軍備はいけないよ、もう兵隊なんてこしらえちゃいけないんだ。
次郎 えっ? 軍備はいけないのかい、ばさま?
りき いけないよ。
(すごくあっさりした言い方で)
次郎 ……じゃあさ、外国から攻めてきたら、どうするんだよ?
りき 攻めてくるって誰が言ったい?
次郎 誰も言ってはいないけどさ、もし来たら、手を上げて国を差し出すのかい?
りき そんなこと、俺には知ったこっちゃないね。
それに、こいつは日本国全体のことだ。
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