初級翻訳・フランダースの犬 第15話

フランダースの犬

ふたりは刺すような寒さの中で、ぴったりと寄り添い合って横たわっていました。
北の海からフランダースの平原へと吹き抜けてくる激しい風は、まるで冷たい氷の波のようでした。
それは触れるものすべてを凍りつかせるほどの冷たさでした。
ふたりがいた巨大な石造りの建物のなかは、雪に覆われた外の世界よりも、もっともっと凍てつくように冷たかったのです。
時々、コウモリが暗闇の中で羽ばたきました。
時々、かすかな月明かりが、ずらりと並んだ石像のすき間から差し込みました。
ルーベンスのすばらしい絵の下で、ふたりは一緒に静かに横たわり、寒さで感覚がすっかり麻痺して、まるで夢を見ているような気持ちになっていきました。
ふたりは一緒に、楽しかった昔のことを夢見ていました。
夏の草原で、きれいに咲いた花の間を追いかけっこしたことや、お天気のいい日に高いガマの穂の陰の水際に座って、船が海の方へ進んでいくのぼんやり眺めた日のことなどを。
その時、突然、暗闇の中から大きな白い光が通路いっぱいにパーッと広がりました。
雲の間から、月が明るく顔を出したのです。
雪はやんでいました。
外の雪に反射した光が、まるで朝がきたかのように明るくあたりを照らし出しました。
その光はアーチを伝い、ふたつの名画の上をぱっと照らし出しました。
ネロはすっと立ち上がり、絵を隠していた覆い布に手を伸ばしました。
その瞬間、「キリスト昇架」と「キリスト降架」の絵が、まばゆい光の中にくっきりと姿を現しました。
ネロはしっかりと立ち上がり、両手をその絵の方へと大きく伸ばしたのでした。熱烈な歓喜の涙が、彼の血の気のない顔に輝きました。
「ぼくは、とうとう見ることができた!」
ネロは声を出して泣きました。
「神さま、もう十分です!」
足で支え切れなくなってひざまづきましたが、ネロはなおあこがれていたキリスト像を見上げ続けていました。
ほんのしばらくの間、まるで天国の玉座から流れ出してきたかのように、明るく、甘く、強い光が、あんなにも長い間ネロが見ることができなかった神聖な光景を照らしだしました。
突然、光は消えてしまいました。
再び暗闇がキリストの顔を覆いました。
再び少年は両腕で犬の体をだきしめました。
「ぼくたち、もうじきイエスさまに会えるんだよ、あそこで」と、ネロはつぶやきました。
「イエスさまは、ぼくたちを離ればなれになさりはしない、と思うんだ」

翌朝、教会の大聖堂の聖壇のそばで、アントワープの人々は二人を見つけました。
彼らは、どちらも死んでいました。
夜の寒さは、若い命も、年老いた命も等しく、凍え死なせたのでした。
クリスマスの朝が明けて、司祭たちが教会にやってきた時、ネロとパトラッシュが一緒に石の上に横たわっているのを発見したのです。
覆いがルーベンスのすばらしい名画からはずされ、二人の頭上では、朝日の新鮮な光が、いばらの冠をかぶったキリストの頭を照らしていました。

日が高くなると、年老いた、険しい顔つきの男が、女のように泣きながらやってきました。
「おれは、この子にひどくつらくあたってきた」
彼はつぶやきました。
「やっと今、償いをするはずだったのに。
そうだ、財産の半分をやって、将来は、おれの息子になっていたはずだったのに」

さらに日が高くなると、世界的に有名なある画家もやってきました。
その画家は、物惜しみをしない、度量の大きな人物でした。
「私は、きのう当然優勝すべきだったはずの商品(少年)を探しているところだ。
その子は、まれに見る将来有望な天才なのだ」と、みんなに言いました。
「たそがれどきに倒れた木に腰かけている、年をとった木こり。
その子の絵は、ただそれを描いただけのものだった。
けれども、その絵には将来の偉大さが隠されていた。
何とかその子を見つけ出して、連れて帰って芸術を仕込んでやりたいのだ」

それから金髪の巻き毛の女の子が、父親の腕にしがみつきながらはげしくすすり泣き、「ネロ、きてちょうだい!」と叫びました。
「もう準備は出来ているのよ。
おさな子イエスの格好をした子どもが手にクリスマスのプレゼントをいっぱい抱えているし、笛吹きのおじいさんが私たちのために笛を吹いてくれることになっているのよ。
お母さんだってクリスマスの週の間中、いいえ、王様のお祭りの間までだって、私たちと一緒に暖炉のそばでクルミを焼きましょう、って言っているのよ。
パトラッシュもとっても喜ぶわよ! ああ、ネロ。
起きて、来てちょうだい!」

しかし、若く青白い顔は、光輝くルーベンスの名画に向けられ、口もとに笑みを浮かべながら、彼ら皆に答えました。
「もう手遅れです」

甘く朗々とした鐘の音が、凍てつくような寒さの中で鳴り響きました。
そして、太陽は雪の野原の上で輝いていました。
にぎやかに楽しげに人々が通りに集まってきました。
でも、もうネロとパトラッシュが人々に施しを求めることはありませんでした。
彼らが必要としたものすべてを、アントワープの町は求められないままに与えました。

彼らにとって死は、なまじ生き長らえるよりも慈悲深かったのでした。
死は、パトラッシュから忠実な愛を、ネロから純粋無垢な信頼の心を奪い去ることはありませんでした(※原文の文脈に即し、失わせなかった、永遠のものとした意)。
この世で愛は報いられず、信じる心は実を結びませんでした。
生涯ずっと、彼らは一緒でした。
そして、死んでも別れませんでした。
というのは、少年の腕が犬をしっかりと抱きしめていて、手荒に扱わなければ引き離すことができないことが分かった時、小さな村の人々は後悔し、恥じ入って、神様の格別のお慈悲を願い、彼らのために一つのお墓を作ったのです。
一緒に安らかに眠ることができるように。
いつまでも!※参考資料
 ノートルダム大聖堂ホームページのルーベンス作・キリスト昇架のページ
 (http://www.dekathedraal.be/en/kunstschat/ks_3.htm)
 ノートルダム大聖堂ホームページのルーベンス作・キリスト降架のページ
 (http://www.dekathedraal.be/en/kunstschat/ks_13.htm)
 上記外部ホームページへのリンク先は、変更される場合があります。
国内では、「キリスト昇架」の実物大のレプリカが、大塚国際美術館に展示されています。
2015年9月17日作成
青空文庫収録ファイル:
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