初級翻訳・亡霊怪猫屋敷 第10話

亡霊怪猫屋敷

「佐平治! 佐平治! おい、そこに誰かおらぬか!」
 と、手をたたいてふすま越しに、雷のような声を張り上げました。
「はっ!」
 と、仕切りのふすまが開いて、若党が敷居際にしっかりと手をついています。
「お呼びでございましたでしょうか?」
「そこにいたなら、なぜ返事をしないのだ? うっかり者めが!」
 と、遠慮会釈もない怒鳴り声が、その佐平治と呼ばれた若党のうえに浴びせかけられます。
「どうせ主人が居眠りでもしているとでも思い込んで、貴様までがそこで居眠りをしていたのだろう。
とんでもない不届き者め!」
「恐れ入ります!」
「ただ恐れ入っているだけでは分からない! 竜胆寺(りんどうじ)殿はまだお見えにならぬのか? 竜胆寺の小金吾(こきんご)殿は!」
 と、噛みつくような鋭い声でした。
「はっ! まだお見えにならないようでございますが……」
「たわけ者め!」ふたたび雷が頭の上で轟きわたりました。
「のうのうと昼寝なんかしていやがって、お見えになったかならぬか、どうして貴様に分かる! 横着者め! さっさと行って、お迎えしてこんか! このたわけ者めが!」
「はっ! では、た……ただいまより、ただいまよりお迎えに行ってまいりまする!」
 左近将監は、もう返事もせずに平伏している若党のほうへ背を向けたまま、怒りでピクピクと、そのいかつい顔のこめかみのあたりを震わせながら、じっと盤の上の碁石をにらみつけています。
「いまどきの若いものは……約束の時間を破ることを、なんとも思っとらん……不らちな! ふらちな!」
 と、襟首のあたりの汗をいらだたしげに拭いているのは、いま立ち去った若党のことを怒っているのではありません。
おそらく、まだ姿を見せないその竜胆寺の小金吾とかいう碁の相手の男のことを、ブツブツと言っていたのかもしれません。
「おい、藤(ふじ)……藤! 藤はおらぬか? 八重(やえ)……八重! 誰か、麦茶でも持ってまいれというに! まったく、どいつこいつもうちのは気が利かんやつばかりそろいおって!」
 と、ふたたび大声をはり上げて、せっかく並べた碁盤の石を、腹立たしげにジャラジャラとかき乱してしまいました。
 こうして城代の左近将監が、怒りを爆発させてじれきっているころには、西日がかんかんと照りつけ、白い砂ぼこりを舞い上がらせているお屋敷の前の坂道を駆け下りて、若党の佐平治は額ににじむ汗をぬぐいながら、竹やぶわきの田んぼ道を、村の境のほうへと走っておりました。
 石橋を渡り終えて、従者の若党と親しげに何か話しながら、いま静かに足を運んでくる、美々しい小姓(こしょう)姿の少年がいました。
「おお、竜胆寺さまだ! 竜胆寺さまの若さまがお見えになった!」
 と、まぶしい光線に手をかざしながら、若党の佐平治のホッとしたことといったらありません! たちまち顔いっぱいに喜びを浮かべながら、砂ぼこりを立てて近づいていきました。
 万物を赤々と染め上げているこの明るい光の中に、絵のようにくっきりと浮かび上がりながら、落ち着いた足取りでこちらへ向かってくるこの小姓姿の少年は、なんと世にも美しい姿だったでしょう。
 透き通るような色白で、前髪を垂らした十六、七歳の少年ですが、その顔は夏の暑さにほてってじっとりと汗ばみ、桜色にほんのりと上気しています。
 そしてパッチリと見開いた長いまつげの瞳は、黒水晶のように涼しげで、紗(しゃ)の薄物の長い袖をひるがえしながら、裾の長い絽(ろ)の袴(はかま)をさばいて歩く姿の、なんと優美で、あでやかなことでしょう! 水もしたたるような美少年とは、まさにこうした小姓のことをこそ言うのだと思われます。
 まるで絶世の美女が、その姿を十六、七歳の小姓の姿にガラリと着替えて現れたとしか思えないほどでした。
「いやもう若さま、さきほどから主人がきついお待ちかねで、おひとりで碁石を並べ、イライラしてほとほとお困りになっておられたところでございます。
さいわい、この道でお目にかかれましたから助かりましたものの、もしほかの道からでもおいでになっておりましたら、わたくしこれから若さまのお屋敷まで、一里の道をお迎えに上がらなければならないところだったのでございます」「いや、もう、助かりましたと申しあげてよろしいやら、ありがたいと手をあわせて、よろしいやら……なんともおかげさまで助かりましてございます」
「ははははは、ご家老のかんしゃくは有名だからねえ……約束の時間にだいぶ遅れて、さぞやいらだっていらっしゃることだろうとは思っていたけれど……」
と、この若様と呼ばれるお小姓は、女性のように優しい笑みを浮かべました。
にきっと愛らしいえくぼが浮かび、赤い唇から真っ白な前歯がちらりと覗いています。
「君たちの迷惑も分からないわけではないのだけれど、困ったことに、母が三、四日ほど前から病気でね。
病気自体は大したことはないのだけれど、なにせ親ひとり子ひとり……おまけに、目の見えない母をかかえているものだから、何事につけても心細がって、僕ばかりを頼りにされるんだ。
許してくれよ、佐平治くん! かなかな家を抜け出してくることができなくてね」
「それはそれは、事情も存じ上げずに、先走りしたことばかり申しあげまして……ま、あのようなお気質の主人でございますれば、わかってはおりましても……そこはつい、その……おいでがございませんと、ますますかんしゃくが募るようなわけでございましょう……」
と、若党は暑さと恐縮のあまり、いいっそう激しく汗をぬぐいました。
「僕は他人だからかまわないけれど、君たち召使いたちは、僕の到着が遅いと、とんだとばっちりを受けて大変だろう。
では……さあ、佐平治くん、君はひと足先に将監さまのお屋敷に戻って、僕が到着したと先触れをしてきたらどうだい? そうしないとまた、気が利かないやつだと叱られるかもしれないよ。
僕にかまわず、さあ、ひと足先に戻ったらどうかな?」
「恐れ入ります。
それでは、手前は一足お先に失礼いたしまして……」
「そう、遠慮はいらないよ。
そうしなさい、そうしなさい」
と、少年は思いやりのある目を向けてほほえみ、優しくうなずきました。
そして、かんしゃく持ちの主人を持つ若党が、すっかり乾ききった道をほこりを立てて坂を駆け上がっていくあとから、落ち着き払って特に急ぐ様子もなく、悠々と山茶花屋敷のほうへ歩いていく姿は、左近将監などとは雲泥の差の上品さと言わなければなりません。
それにしても、頬髭がいかめしく、顔を真っ赤にした四十いくつもの左近将監が、しきりに待ち焦がれていた碁の相手というのは、こんな年端もいかない少年だったのでしょうか? しかも、何度繰り返してもこの少年の気高く美しい様子は、なんと際立っていたことでしょう。
そして、権勢ならびなき城代家老・石藤左近将監がかんしゃくを起こして待ちかねていると聞いても、別段驚き慌てる様子もなく、相変わらず落ち着き払って、悠々とした足取りで坂道を上がっていくとは、なんとも不思議な少年だと思われるかもしれませんが、その理由は、またの機会にお話しすることにいたしましょう。

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